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  <title>ＩＴ人物列伝</title>
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    <title>ＩＴエンジニアたちの軌跡①</title>
    <description>
    <![CDATA[<strong>■ プログラム２人の母</strong><br />
 コンピュータ・プログラムには２人の「母」が存在する。オーガスタ・エイダ・ラブレス（1818～1852）とグレース・ホッパー（1906～1991）だ。エイダは制御システム向けプログラミング言語「Ada」にその名を残し、ホッパーはビジネス向け言語「COBOL」を考案したことで知られる。<br />
初期の電子計算機に採用されていた配電盤（ワイヤード・プログラム）は、イギリスの数学者チャールズ・バベッジ（1791～1871）が考案したとされる。彼は三角関数の対数を正確に記述する「階差機関」（Difference Engine、1833年）、「解析機関」（Annalistic Engine、1842年）を構想し、パンチカードとワイヤード・プログラムの組み合わせを考案した。<br />
 オーガスタ・エイダ（1818～1852）は詩人ジョージ・バイロンの一人娘で、ラブレス伯爵の夫人という恵まれた環境にあった。数学に興味があった彼女はバベッジの研究室に勤めていて、1942年から43年にかけて、解析機関の解説書に注釈を付けた。その中でワイヤード・プログラムを記述したことから、「世界で最初のプログラマ」「プログラマの母」と称される。ただし、彼女はバベッジが作ったプログラムを清書（コーディング）しただけという説が強い。<br />
<br />
<br />
<strong>■ コンパイラを考案</strong><br />
 1954年１月にレミントン・ランド社が発表した「UNIVAC120」は、産業界に電子計算機が普及するきっかけとなった。しかしワイヤード・プログラムでは専門技能者が不足した。そこでホッパーは、共通プログラム（サブルーチン）を集約すれば、技能者不足を補うことができると考えた。<br />
 また1950年にマサチューセッツ工科大学が開発した磁気コア記憶装置が、フォン・ノイマンのプログラム記憶方式を実現可能にした。プログラムを０と１の機械語で記録しておくのだが、ホッパーは機械語を記号に置き換えることを思いついた。<br />
 記号でサブルーチンを呼び出し、繰り返し利用するやり方である。この方式は現在、「コンパイル」と呼ばれ、そのツールは「コンパイラ」と総称されている。<br />
<br />
<strong>■ 1960年に標準化</strong><br />
 1952年、自動プログラミング開発部長として記号を機械語に変換する「A0」というコンパイラを考案し、その５年後（1957年）、英語文から機械語を自動生成する「Flow-Matic」が完成した。UNIVAC120やその後継機は金融、証券、保険といった分野の業務処理に利用されたので、Flow-Maticはおのずから事務計算用プログラム向けだった。<br />
 A0に刺激を受けたのは、当時の電子計算機市場でレミントン・ランド社を追撃していたIBM社だった。IBM社でコンパイラの開発に取り組んでいたジョン・バッカス（1924～2007）は1957年、技術計算用のIBM704向けに「FORTRAN（FORmula TRANsration）」を発表、奇しくも同じ年に事務処理用と技術計算用の自然言語コンパイラが出そろった。<br />
 1959年、ペンシルベニア大学で開催された米国政府のプログラミング言語標準化委員会（CODASYL）でFlow-Maticは「COBOL（Common Business Oriented Language）」と命名され、こんにちに至っている。またホッパーはその後も海軍にとどまり85年少将に昇進、86年退役後はディジタル・イクイップメント（DEC）社の顧問となっている。<br />
<br />
<br />
<strong>■ 「バグ」という用語を作った</strong><br />
 グレース・ホッパーは、イェール大学大学院で最初に数学の博士号を取った女性でもある。第2次大戦でアメリカが反攻に転じた1943年、海軍に予備役として応召し、ハーバード大学の船舶計算研究室で電子計算機の開発に従事することになった。<br />
 ハーバード大学では、ハワード・エイケン（1900～1973）がリレー式の「MARKⅠ」（プログラム内蔵型計算機の原型）の開発を進めていて、ホッパーはそのプログラムを担当した。配電盤に入り込んで誤動作させた蛾を作業日誌に貼り付け、「実際にバグ（虫）が発見された最初の例」というコメントを付けた。<br />
 彼女は1949年、海軍中尉のままエッカート・モークリー社（1950年レミントン・ランド社）に移ってENIAC後継機の開発に従事したが、しばしばこの逸話を話した。これがプログラマの間で広まって、プログラムの不具合を「バグ」と呼ぶようになった。蛾を貼り付けた日誌は現在もワシントンD.Cのスミソニアン博物館に保存されている。<br />
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    </description>
    <category>外伝</category>
    <link>https://kisyakai.blog.shinobi.jp/%E5%A4%96%E4%BC%9D/%EF%BD%89%EF%BD%94%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E8%BB%8C%E8%B7%A1%E2%91%A0</link>
    <pubDate>Sat, 24 Sep 2011 03:56:06 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>大久保茂氏</title>
    <description>
    <![CDATA[　2007年10月23日、東証１部上場の独立系ソフトウェア会社シーエーシー（旧社名：コンピュータアプリケーションズ）の創業者で、ソフトウェア産業の基盤形成に尽力した大久保茂（おおくぼ・しげる）氏が肺炎のため死去した。86歳だった。<br />
　大久保氏は1921年横浜市に生まれた。英語が達者だったことから在日米軍立川基地に事務員として採用され、それが縁で北川宗助氏と知り合った。のち北川氏と行動を供にし、日本ビジネスを経て日本ビジネスコンサルタント（NBC：現日立情報システムズ）の創立に参加した。<br />
　NBCが日立製作所の電子計算機（米RCA社のOEM）を一手に扱っていた関係から、1965年日立によるＮＢＣ買収構想が表面化した。このとき東京営業所電子計算機部の部長だった同氏は、渡辺勇作氏（のちＣＡＣ専務、故人）、弟・宏氏ら約40人と語らって独立を決意した。<br />
<br />
　　　■■―負けず嫌い―■■<br />
　翌年６月、東京・赤坂の飲食店で開かれた最終会合で、「政府肝いりのソフト会社（日本ソフトウェア）が設立される見込み」との情報を得た。大久保氏は、「２番目になるのは口惜しい」と、ただちに新会社の準備を進め、８月８日（「八朔」と呼ばれる吉日で、徳川家康が江戸入府した日でもある）に法人登記を行った――という。負けず嫌いな同氏なら、いかにも、の伝説だ。<br />
　社名はNBC課長時代、北川氏の通訳兼運転手として米国を視察したとき、ロサンゼルスで訪問した「コンピュータ・アプリケーションズ」社にちなんでいる。「ボクはビジネスモデルごと日本に持ち込んで、実現したかった」と話していた。<br />
　一貫して資本・受注・人材の「独立」にこだわり、コンピュータメーカー経由でなく、ユーザー直の契約を追及した。また1986年施行の労働者派遣事業法に対しては、情報サービス産業協会副会長として「ソフトウェアエンジニアは派遣業務の対象から外すべきだ」との論を展開した。しかしその一方で技術者派遣に傾斜していくソフト業界の実情を苦々しく感じ、また一方ではソフトウェアの設計・開発から人間くささが消えていくことを歯がゆく思っていた節がある。<br />
<br />
　　　■■―突っ走るのが好き―■■<br />
　ソフトの受託開発ばかりでなく、ソフトウェアパッケージの販売にも注力し、アシストを創業したビル・トッテン氏を陰で支えた。また1969年には「四社会」を結成、これがソフトウェア産業振興協会の母体となった。<br />
車を運転するのが大好き――というより「ぶっ飛ばすとスカッとする」――で、業界のリーディングカンパニーの社長、ソフト協・情産協の副会長（会長候補）であるにもかかわらず、運転手付きの社用車に乗るのを嫌がった。「アメリカ大陸を横断したとき、アクセルに重たい英語の辞書を置いて突っ走った」と豪放に笑っていたことを思い出す。<br />
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    <category>索引　さ</category>
    <link>https://kisyakai.blog.shinobi.jp/%E7%B4%A2%E5%BC%95%E3%80%80%E3%81%95/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E4%BF%9D%E8%8C%82%E6%B0%8F</link>
    <pubDate>Tue, 20 Sep 2011 01:08:10 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>石田　浩　元情報サービス産業協会国際部長</title>
    <description>
    <![CDATA[　――情報産業にかかわる1950年代のことを知りませんか。<br />
　という筆者の問いかけに、<br />
　「ヒントを教えてあげましょう」<br />
　と言ってくれた人もいた。<br />
　石田浩氏もそうした人の１人である。<br />
　同氏には社団法人情報サービス産業協会の国際部長として、しばしば取材させてもらった。協会事務局を退いた現在は、埼玉県で暮らしながら、ソフト関連企業の顧問を務めている。<br />
　「まず、戦前にあった日本ワットソンという会社を調べるといい。そこに水品さんとか、島村さんとかがいて、そういう人たちが戦後、企業経営手法を啓蒙し、コンピューターの利用を広げたんですよ」<br />
　と同氏は言った。<br />
　「水品さん」は日本IBMの第２代社長、「島村さん」は日本ビジネスの創業者――という程度の予備知識はあった。<br />
　「戦後、GHQが日本人の経営者や管理者を養成したとき、島村さんたちが講師をやったんです」<br />
　そのことは知らなかった。<br />
　「パンチカード・システムのことは知ってるよね」<br />
　――言葉だけは。<br />
　「ま、いいや。戦後間もないころ、PCSを使うということは、経営の近代化、民主化を意味していてね。つまり会計や在庫、原価を計数的に管理しようということだった」<br />
　そういう考え方は戦前はなかった。<br />
　「算盤と帳簿だもの。統計を作って経営を分析するなんていう発想は戦後ですよ。そのために会計処理の方法とか、経営や組織の運営、業務改善の手法を、占領軍は日本人を使って日本の企業に教えたんですよ」<br />
　なぜ、そういうことを知っているのかと尋ねると、<br />
　「だって、わたしはその授業を受けた１人だもの」<br />
　という答えが返ってきた。石田氏当人が、歴史の証言者だったのである。<br />
　改めて連絡を取ると、石田氏は<br />
　「わたしなんか、インタビューしてもつまらないよ」<br />
　と謙遜して言った。<br />
　「そこを何とか」<br />
　と強引に面談の時間を取ってもらった。<br />
　「どういういきさつで占領軍と付き合うようになったんですか」<br />
　と尋ねるると、<br />
　「カイザー田中という人を知っているかね？」<br />
　と石田氏は言った。<br />
　以下は、石田氏の談話をもとに、筆者の調査を加えたものだが――。<br />
<br />
　――1948年からGHQは、日本企業の経営の近代化・民主化を推進したんですよ。横浜市に設置したMTP、つまり「マネジメント・トレーニング・プログラム」、それとTWI、こっちは「トレーニング・ウィズイン・インダストリー・フォー・スーパーバイザー」がそれでね、現在も講座が開かれているはずですよ。<br />
　調べると、あった。<br />
　社団法人日本産業訓練協会（JITA）が、東京・渋谷で現在もMTPとTWIの講座を開いていた。同協会の資料によると、「MTPは1945年、日本に初めて紹介された管理者教育の原点と言われる研修プログラム。日本の企業風土と産業の発展、経済環境の変化などにあわせて、繰り返し改定が行われ、現在でも、産業界・官公庁を問わず、管理者教育の要として幅広く活用されている。昭和20年代後半には、国内の大企業を中心に普及していく。昭和28年度には大企業の半数がTWIに人材を送り込んでいた」とある。ちなみに同協会がMTP、TWIのライセンスを得たのは1955年で、協会は通産省と労働省および、経団連の共同で設立されている。現在のMTP、TWIは、それぞれ一単元が10時間で構成され、１クラス10人程度による会議形式の実習となっている。いまだに受講者は多いらしい。<br />
　さらに調べると、MTPというのはそもそもアメリカ空軍が監督者を訓練するために策定した標準教育課程をもとに、経営管理者向けにアレンジしたものだった。<br />
　石田氏の回想を続ける。<br />
　――GHQの資料をもとに、カリキュラムや手引書の日本語化が始まったのは1950年でした。わたしはその第１期生みたいなもので、教科書も教材も英語、授業も英語だったので、それは苦労しました。GHQはアメリカ流の計数的指標、それに基づく合理的な経営の手法を経営者に教え、戦前の財閥のような同族経営の弊害を除去しようと考えたのでしょう。このため、実務担当者や経営幹部となるべき有望な青年を対象に設けられたのがMTPとTWIだったというわけです。<br />
　現在で言えば、CIO（チーフ・インフォメーション・オフィサー）とインフォメーション・アドバイザーを養成しようとしたのである。<br />
<br />
<br />
　　　　２<br />
<br />
　では石田氏はどのようないきさつで占領軍の経営学講座を受講することになったのだろうか。石田氏の回想によると、当時の状況は次のようだった。<br />
<br />
　――社会に出たのは昭和24（1949）年でした。軍事訓練を受けているうち、終戦になってね。大学に入り直したものの、東京はポツンポツンと焼け残ったビルがある程度で、街には復員兵や戦争孤児があふれていました。それこそ「大学は出たけれど」でね。食べていくのがやっと、という状態で、いまのように企業が新卒採用をやっていたわけじゃありませんでした。就職先は自分で探した時代でした。そうこうするうち、知り合いの紹介で、やっとの思いで札幌のホテルに職を見つけることができたんです。<br />
<br />
　就職したホテルというのは、札幌グランドホテルだった。札幌グランドホテルは現在も、三井観光開発の所有で、札幌市北一条にある。<br />
　ここで石田氏は意外な人物と出会うことになった。それは田中義雄という人物だった。<br />
　この名前を聞いてすぐ分かる人は、よほどの野球通であり、かつ、よほどの〔トラキチ〕といわなければならない。<br />
　1909年７月、ハワイに生まれた。戦前、昭和12（1937）年から1944年まで、阪神タイガースで正捕手を務めた。身長176センチ、右打ち右投げ、背番号〔12〕。ドイツ帝国皇帝カイゼルにあこがれ「カイザー田中」と名乗った。「阪神の司令塔」とも呼ばれ、1940年にはベストナインに選ばれている。彼の活躍がなければ、戦前における若林忠志、亀田忠（イーグルス）、上田藤夫、山田伝（阪急）、戦後の与那嶺要（巨人）など、30人を超えるハワイ日系２世が日本のプロ野球史に名を連ねることはなかったであろう。<br />
　日米開戦を前に彼らの多くはハワイに戻ったが、カイザー田中は日本に残っていた。日本国籍を取得し、〔日本人〕になっていたのである。プロ野球の人気選手ではあったが、アメリカ生まれということでやや白眼視され、退団後、ひっそりと札幌で暮らしていた。<br />
　日本語と英語が達者なことから1945年8月にGHQ所属の通訳となり、北海道庁や札幌市役所、地元企業などに対するGHQの窓口となっていた。<br />
　各地の主要なホテルは駐留軍の指令本部兼将校の宿泊施設として接収されていた。札幌グランドホテルも例外ではなかった。特にアメリカ軍はソ連軍への警戒から北海道を最も重視していて、千歳基地と札幌市に軍司令部を置いていた。司令官と直接話ができるカイザー田中のウエイトは大きかった。<br />
　ここに石田氏が採用されたのは、「少しは英語が理解できる」という理由からだった。<br />
　結果として石田氏は、当時の極東アメリカ軍にとって最もウエイトが高かった軍司令部で、最も頼りになる上司の下で働くことになったのである。これが石田氏の人生を決定する。<br />
　この若い日本人の人柄や勤務状況、英語の理解力を見ていたカイザー田中は、しばらくして、<br />
　「横浜に行って、勉強してくるといい」<br />
　と石田氏に告げた。<br />
　「何を勉強するのでしょうか」<br />
　と尋ねると、<br />
　「行けば分かる」<br />
　というような返事しか返ってこなかった。<br />
　「命令みたいなものでしたね」<br />
　と石田氏はいう。カイザー田中が司令官を説得したのであろう。<br />
<br />
<br />
　　　　３<br />
<br />
　――MTPコースは、英語ができて将来有望な若手を20人ほど全国から選抜して、経営管理手法を教えていたんです。手引書やカリキュラムが日本語化される前のことで、現在のように〔１単元10時間〕〔１クラス10人〕というような体系もなく、手探りの授業が続けられていました。<br />
　そこで民主的な経営とはどうあるべきか、業務の改善はどうすれば実現するかとか、人事管理などを勉強しました。英語では苦労しましたよ。<br />
　というのは、教科書と呼べるようなものはなかったんです。カリキュラムもいまのように体系化されていませんでね。アメリカ流のカリキュラムをそのまま持ってきても日本の事情に合わないわけです。それで、講師と生徒が一緒になって辞書を調べながら、英語の手引書を翻訳し、それを日本流にアレンジしていきました。<br />
　このとき日本人の講師だったのが、日本ビジネスの島村浩さんでした。<br />
<br />
　日本ワットソン統計会計機で北川宗助と机を並べた島村浩は、米第8８軍のMRUが縮小されたのち、このMTPの講師として配属されていた。神戸商業大学での講座や第8軍でインストラクタを務めたことが評価されたのだった。<br />
　MTPでアメリカ流の経営管理手法を学んだ石田が札幌に戻ったとき、それは1952年のことだったが、カイザー田中はアメリカ国籍に復してハワイに戻っていた。そのため、空席となっていた札幌グランドホテルのマネージャーに抜擢された。<br />
　マネージャーの仕事をこなす傍ら、市の商工会や学校などに招かれて、アメリカ流経営学について講義することもあった。その話を聞いた地元企業から、機械化や事務の合理化などの相談が持ち込まれることも少なくなかった。<br />
　札幌市に本社を置いていたフルヤ製菓に招かれ、組織改善や事務の機械化を推進した。<br />
　「わたしはPCSを使いこなす技術はなかったけれども、計数的な指標に基づく経営の手法や人事管理、組織のあり方など、MTPでの研修はたいへんに役に立ちました」<br />
　なかでも業務の標準化や事務手続きの簡素化は、経営の効率アップに役立った。ドロップやキャラメルなどは単価が安いため、大量に販売しなければ利益が出ない。在庫と販売の管理を確実に行うとともに、物流を整備しなければならない。つまり商品をコード化し、生産から物流、販売にいたるまでの同一のコードで管理することになる。<br />
　PCSによる機械化が計画された。<br />
　「機械化の推進では、島村さん、藤本さんの縁で日本ビジネスに指導してもらいました。業務分析とかワークフローとか、毎晩徹夜の連続みたいなものでしたが、地方の中小製菓会社に過ぎなかったフルヤ製菓が、一躍、全国に市場を広げることができたのは、この成果だったと思います」<br />
　ここに登場する「藤本さん」は、のちにドイツのソフトウェアAG社と提携して汎用機用データベース管理システム（DBMS）「ADABAS」を販売した藤本和郎である。以後、石田はフルヤ製菓のCIOとして活躍し、1982年に藤本和郎がソフトウェア産業振興協会会長になるのに伴い、藤本の招きで同協会事務局長となった。戦後の復興期、同じ釜の飯を食った人と人のつながりの強さは、現今の比ではない。<br />
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    <category>索引　あ</category>
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    <pubDate>Mon, 05 Sep 2011 13:08:36 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>安藤多喜夫氏　アイエックス・ナレッジ（データ・プロセスコンサルタント）創業者</title>
    <description>
    <![CDATA[　　　　　１<br />
<br />
　安藤多喜夫氏と会った日は、夏を思わせる強い日差しが照りつけていた。<br />
　同氏が「株式会社データー・プロセスコンサルタント（DPC）」を創業したのは、1964年の8月である。戸谷深造氏が通産省の電子工業課長に就任したのと時を同じくしている。東京オリンピックの開幕を前に、東海道新幹線が開通し、首都高速道路が建設されるなど、日本経済は活況に満ちていた。<br />
　同社は当初、東京・新橋に本社を構え、72年に芝に移転、次いで銀座9丁目の共同ビルに本拠を定めた。共同ビルの時代は1999年まで続いている。その間、社名を「アイエック」に変更し、株式を東京証券業協会店頭に登録した。次いで日本ナレッジインダストリ（ＮＫＩ）と合併して社名を「アイエックス・ナレッジ」に変更し、社長の座を春日正好氏に譲った。東京証券取引所２部への上場を果たし、相談役。現在は創業者・社主として子息・文男氏の経営ぶりを眺めている。<br />
　設立から8年後、1972年時点の記録によると、資本金は4,000万円、組織は「社長の下にシステム開発研究会、運営会議、営業会議を置き、その下に総務部、運用管理部、技術部、コンサルタント部、営業部」とある。主要業務は「プログラム作成」「運用管理」「パンチ業務」で、ソフト開発が全体の52％を占めていた。従業員は261名である。またコンピュータ専門紙「日本情報産業新聞」1987年9月28日付の記事によると、<br />
　社員数1200人の業界大手、受託計算とシステム運用受託を中心に、ソフト開発・販売、技術教育など事業の多角化を図り、ＶＡＮサービスでセコムネットと提携、海外進出も果たす。<br />
　とある。72年に260人だった社員数が15年後に５倍に増えている。<br />
　――日本にも本格的なアウトソーシング・サービスを根付かせたい。<br />
　を常に目標として掲げていた。電算室の運営を一手に引き受けるサービスは、日本では「ファシリティ・マネージメント」略して「ＦＭ」と呼ばれていた。その言葉には、<br />
　――プログラム作成よりレベルの低い仕事。<br />
　というニュアンスがあった。同氏は「アウトソーシング」という言葉で、高度なサービスへのイメージ・チェンジを図ろうとしていたのだ。実をいうと、筆者はこの言葉を初めて安藤氏から聞いた。しばらくして他の会社で同じ言葉を聞いたとき、<br />
　――そうですよね。<br />
　と相槌を打つことができた。ただし、そのときはEDSという会社のことまで知らなかった。<br />
　EDSとは、すなわちエレクトリック・データ・システムズ社のことで、ロス・ペローという人物が設立した。1992年と96年の２回、私費を投じてアメリカ大統領選挙に打って出た人物、といえば少しは分かりがいい。ちなみにいうと、「EDS」というアメリカの会社の名前が国内で広く取りざたされるようになったのは、1990年代に入ってからだった。新しい情報処理サービスの形態として「アウトソーシング」「コ・ソーシング」が脚光を浴び、その先駆をなした企業としてマスコミが一斉に取り上げた。氏にしてみれば、<br />
　――何をいまさら。<br />
　というのが正直なところだったのではなかったか。<br />
　久しぶりに会った「アンタキさん」は、ダンディさは依然健在だった。頭の回転も舌の滑らかさも、少しも落ちていない。実際、この人の口から次から次に繰り出される話題に付いて行ける人は、よほどの理解力の保有者といわなければならない。おまけにこの人は早口で、あれこれ細かく説明するのが面倒な性質なのだった。当初予定していた一時間という時間はあっという間に過ぎた。<br />
以下、同氏の回想。<br />
<br />
<br />
　　　２<br />
<br />
　1956年というと、わたしが在日米軍の補給廠でIBMのPCS（Panch Card System）と格闘していたときだね。<br />
　当時は労働組合が活発でしてね、労働協約の遵守とか、就労環境の改善、賃上げとかでしょっちゅう職員のストライキがありました。米軍の待遇は、他の民間企業よりずっとよかったんだけれど、それでもストライキがあってね、管理職だった自分らがＰＣＳの仕事を肩代わりしました。<br />
　私なんか、何も知らないでアルバイトからそのまま職員になっちゃったから、就労条件がどうのこうの、残業がどうのというより、仕事が先、という感覚でしたね。それより、久しぶりに現場の仕事ができる、っていうんで楽しかった。<br />
　真空管式の電子計算機は登場していたけれど、なんといっても主流はパンチカード・システム、つまりPCSでしたよ。計算処理を全部パンチカードでやる。カードはIBM方式でしたから、カラムは80桁でした。それのパンチも自分たちでやる。ソーターにかけて、機械に読み取らせるのも自分、プリントアウトをするのも自分。ぜんぶ一人でやりました。そういう時代です。<br />
　集計も「サマリーカード」というのに出力されてね、それを印字装置にかけるんですよ。いまみたいにOSとかメモリなんていう上等なものはないし、プログラムを組むのも配電盤の配線でしなけりゃならなかった。配線は経験と勘がたいせつで、そう簡単には覚えられない。だから「ワイヤリング・スペシャリスト」なんていう言い方もあった。人間がワイヤリングして機械を動かしていたわけだから、<br />
　――あ、いま読み込みに行ってるな。<br />
　――もうすぐサマリーが出るぞ。<br />
　とかね。<br />
　何がどうなっているか、計算機がどう動いているかが手に取るように分かった。<br />
　今のコンピュータはブラックボックスで、何がどう動いているか、さっぱり分からない。人は結果を受け取るだけだけれど、当時はまさに計算機を動かしている実感があった。わたしはワイヤリングもやったけれど、全体のシステムを考えたり、仕事量を見て、人員を配置するのが得意だった。<br />
　計算機に出会ったのは1952年だから、昭和27年の春だったかな。わたしは当時、神奈川大学の学生でね、1931年生まれだから21歳、忘れもしない12月5日でした。朝鮮戦争の真っ只中でね、日本を占領していたアメリカ軍が半島に駆り出されて、日本がその補給基地になっていたわけですよ。とにかく戦争ですから、夜中だろうと何だろうと物資を運ばなきゃならない。だから滅茶苦茶に忙しかった。<br />
　わたしがなりたかったのは船乗りか商社マンでした。海外で活躍したかったし、資源が何もない日本を復興させるには、まず貿易からだと考えていたからね。生まれ育ったのが横浜なもんですから、海外との貿易を身近に感じていたんですね。<br />
　ところが現実はというと、まだまだ戦後の復興の最中で、あたりは空襲の焼け跡だらけで、戦災孤児や復員したけれど仕事がない兵隊さんとかが町にあふれていたし、大学を出てもロクな就職先がない時代でした。<br />
　たまたま新聞の求人広告で、川崎にあった在日米軍補給廠―正式な名前は「在地米軍総合補給本廠電子計算部」だったかな―が事務員のアルバイトを募集していたんですよ。<br />
　――仕事で英語を覚えることができれば、商社マンになったときいいだろう。<br />
　と思いました。たまたま知り合いに米軍の将校がいましてね、その人の紹介で応募したら、面接官が自分とほとんど同い年の若い人で、ちょっと驚きました。それが稲田博さんでした。<br />
　それ以来、仕事上では付かず離れず、個人的にはずーっと家族ぐるみの長い付き合いが続いています。どういうわけかセンター協では同じ時期に２人そろって副会長を務めさせてもらったし、お互いに浜っコだし、自宅が近いこともあって、「イナちゃん」「アンちゃん」なんて呼び合っています。けれど、当時は自分を採用するかどうか決める人だから、そりゃあ緊張しましたよ。<br />
　紹介してくれた米軍の将校がね、<br />
　「計算機は将来、世の中に広く普及する。今のうちに技術を身につけておけば必ず成功する」<br />
　と言って励ましてくれたのを今でも覚えています。<br />
<br />
<br />
　　　３<br />
<br />
　――待遇はどうだったのですか？<br />
　給料はよかったですね。大卒の人より三割方多かったんじゃないかな。仕事はね、最初はアルバイトだから、プリンタのカーボンの処理やパンチカードの運搬といった、力仕事と雑用でした。そのうち機械の操作を教えてもらって、いまでいうとキーパンチャ兼オペレータ兼プログラマの仕事をするようになりました。<br />
　通信部隊の物資を補給するために、計算機でデータを処理していたんですね。総員は60人ぐらいで、４チームに分かれて朝６時から午後２時、午後２時から夜10時、夜10時から明け方の６時までという３交代制でね。シフト勤務手当てとか、語学手当てとか、それが本給の３割増しで付く。同い年のサラリーマンの給料が4,500円のとき、7,200百円ももらっていたんだから、いい給料でした。<br />
　――計算機はどんな場所に設置されていたのですか？<br />
　カマボコ型の兵舎でしたよ。そこに機械が設置されていて、最初はただ地べたに板を敷いていたんじゃなかったかな。そのうちコンクリートの床になった。夏になると猛烈に暑かった。あっちこっちに扇風機を置いて風を送るんだけど、閉め切りですからね。ランニングシャツと短パンで仕事をしました。外も暑いんだけど、それでもマシン室から出ると涼しく感じたもんですよ。<br />
そんなことをやっているうちに、こっちの仕事のほうが面白くなって、結局、大学は卒業せずじまいでした。そういう人はわたしだけじゃなくて、ほかにも大勢いましたよ。だって自分も知らないうちに正職員に採用されていた、なんてことがあったんだもの。<br />
　――本腰を入れたのはいつごろ？<br />
　24歳になったときでした。給料はいいし、仕事は面白いし、それでいつの間にか大学に行かなくなっちゃって、正規の採用試験を受けて正職員になったんです。当時、在日米軍の計算機部門で日本人が2,000人以上、働いていたんじゃないかな。立川基地の北川宗助さんが日本人のトップで、鉄砲とか弾丸とかの兵器、軍用自動車の部品、被服、食料、薬品、備品などすべてを計算機で管理していた。朝鮮戦争で米軍が使う武器とか、何がどれくらい、どこに必要か、全部分かった。ということは戦局の様子が手に取るように分かっちゃうわけですよ。<br />
　正職員だから、それなりに昇格するわけですよ。補給廠のマネージャーになったとき、職員のストライキが起こってね。職員がストをしても、補給の業務は止められないから、管理職員が計算機の運用をしなけりゃならなくなった。こっちは何から何まで一人でやったことがあるから、徹夜の連続で仕事をこなした。カーボン紙を外すとき、汗でカーボンが体に付いて、真っ黒になったな。<br />
　そのうち朝鮮戦争が休戦に入って在日米軍基地が縮小され、昭和34(1959)年に北川さんも島村浩さんと「日本ビジネス」を作るとか、米軍のPCSの仕事をしていた人たちがどんどん独立していった。わたしは先々のことをあまり考えていなかったし、他の人の就職口を探したりしているうち、結局、最後まで残っちゃった。<br />
　――独立は？<br />
　1960年にやっと米軍の仕事から抜けて、補給廠で知り合った畑重雄さんという人が作った「第一計算」という会社の仕事をお手伝いをしたのが、この商売に入る最初でした。稲田さんはこのとき、「IBM650」の技術者として、第一計算という会社のセンターを任されていたんじゃないかな。彼は優秀なプログラマーでしたから、第一計算が分裂したとき、計算業務だけじゃなくてソフト開発も受託できる会社を指向したんです。それで作ったのが「第一ソフテック」。わたしはそのときもまだ、自分の将来を決めかねていました。<br />
　手ごたえを感じたのは、日立製作所の家電事業部、今の日立家電の市場調査プロジェクトに参加したときです。計算機なんて誰も知らないものだから、わたしがシステムを設計し、プログラムを作りました。ちょっとカッコいい「プロジェクト・プランナー」という肩書きをもらいました。その経験が、「データのプロセスをコンサルタントする」という社名につながっています。<br />
何を調べたかというと、カラーテレビの将来性でした。昭和30年代、まだ白黒テレビでさえ家庭に普及していなかったのに、日立はもうカラーテレビのことを調査していたんですね。<br />
　「将来、7,200万台の大きな市場になる」<br />
　という結論を計算機がはじき出して、日立は研究開発に自信を得たんです。マーケット・リサーチのはじめでしたね。これがきっかけで、日立の仕事を受託するようになったんです。<br />
　最初はパンチ業務でした。33歳のとき独立して会社を作ったんだけれど、計算機は高嶺の花でした。霞が関のお役所や保険会社に勤めているパンチャーがオフィスから引きあげてくるのを待って、新橋駅あたりで「アルバイト募集」のチラシをまきました。それでパンチャーを集めて、客先にあるマシンを使わせてもらって受託計算の代金をいただいた。<br />
　若かったから、徹夜なんてへっちゃらだし、計算機のことなら任せろ、っていう自信があった。とにかくハングリーで、<br />
　――どうしたら儲かるか。<br />
　――次はどんな仕事をやってやろうか。<br />
　ということばかり考えていましたね。<br />
　米軍でがむしゃらに働いた経験があったのと、最初の仕事がプランナーだったので、ただのパンチ会社では終らないぞ、会社を作ったからには儲けてやる、という気持ちだけはありました。]]>
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    <category>索引　あ</category>
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    <pubDate>Mon, 05 Sep 2011 12:52:15 GMT</pubDate>
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    <item>
    <title>金岡幸二氏　インテック創業者</title>
    <description>
    <![CDATA[<a href="//kisyakai.blog.shinobi.jp/File/2b40a567.jpeg" target="_blank"><img src="//kisyakai.blog.shinobi.jp/Img/1315182331/" border="0" alt="" /></a><br />
<br />
<br />
　東京生まれ。旧姓「石坂」。1923年9月20日～1993年9月2日。東京帝国大学在学中に陸軍に徴兵され、満州・奉天航空基地に飛行生として配属された。1945年8月、特攻の命令を受けたが終戦となり、復員して再度、東京大学に入った。1949年東大工学部を卒業し東光電気、大学講師などを経て1964年「㈱富山計算センター」を設立し専務。1970年「インテック」に社名変更と同時に代表取締役社長。富山県教育委員会委員長、富山女子短期大学理事長、ちゅーりっぷテレビ社長などを兼務した。1970年社団法人日本情報センター協会の設立に尽力し、1973年通産省産業構造審議会情報産業部会委員、1982年郵政省電気通信審議会委員、1987年社団法人特別第二種電気通信事業者協会会長などを歴任した。コンピューターとネットワークの融合による総合サービスの重要性に早くから着目し、通信回線の自由化と日本電信電話公社の民営化に貢献した。<br />
<br />
<br />
　１<br />
<br />
　東京帝国大学在学中の1945年春、学徒動員で陸軍に召集された。終戦のときは満州・奉天の日本陸軍航空部隊に飛行学生として配属されていた。そのときの同僚に、のち富士通社長・会長となる山本卓眞がいる。<br />
　1945年8月８日、ソビエト連邦が対日宣戦布告を行い、兵160万・火砲２万6000門・戦車5600台をもって極東軍が満州に侵攻したとき、特別攻撃を命令され死を覚悟した。８月15日、日本のポツダム宣言を無条件受諾したことを無電で知った直属の司令官が金岡と山本に、「本土に戻って、新しい日本の建設に邁進せよ。これは命令である」と告げた。<br />
このとき奉天飛行場には、陸軍の最新鋭機「烈風」が２機残っていた。２人はその烈風に乗って奉天を後にした。残された奉天飛行隊はのちソ連軍に降伏し、シベリアに抑留されることとなる。戦後から1990年代までの金岡と山本の活動は、このときの贖罪の気持ちが強く作用している。<br />
<br />
　広く知られているのは、富山の人であるということだが、そもそもの姓は金岡ではない。祖父は富山市長、衆院議員、参院議員などを務めた石坂豊一、父親は滑川市の出身で最高裁判所の判事を務めた石坂修一。石坂家はむろん名家だが、長男・誠一が家を継いだ。誠一はのち通商産業省工業技術院院長となった。<br />
　幸二は金岡又左衛門の長女・千鶴子を妻に迎えるに当たって、金岡家を継いだ――ということが、「越中人譚」第28号〔進取〕（小沢昭巳、チューリップテレビ）に載っている。<br />
　その地で「金岡家」といえば、よほどの力を持っている。<br />
　江戸の末期、薬種問屋「金岡薬店」を営んでいた金剛寺屋又右衛門の長子・又左衛門が分家し、もって「金岡薬店」の初代とする。初代は1899年に「富山電燈」、1913年に「富山軌道株式会社」を興し、県議会議長、衆議院議員。<br />
　二代目・又左衛門は「第一薬品株式会社」「富山合同無尽株式会社」を設立し、貴族院議員。三代目・又左衛門は「テイカ製薬株式会社」「富山女子短期大学」「富山育英会」を創設した。義父の又左衛門が四代目に当たる。つまり石坂改め金岡幸二は金岡薬店の五代目当主となるべき存在であった。<br />
　余談だが、富山市には戦前、およそ30の薬種問屋があった。いずれもたいそうな構えの屋敷であったそうだが、1945年８月の空襲で金岡薬店のみを残して焼亡した。その建屋は1981年に県に寄贈され、県民会館分館「金岡邸」となり、98年、国の登録有形文化財となった。<br />
<br />
<br />
　　　　　２<br />
<br />
　復員して東大に入り直し、1949年に工学部を卒業して東光電気に入社した金岡は、ここで川上睦水（のち塩尻市観光協会会長）と懇意になった。川上は金岡の４歳年上で、東大工学部総合研究所に所属しながら、嘱託として東光電気に出入りしていた。<br />
　当時のことを松本市の雑誌社が発行した雑誌に川上が書き記している。<br />
<br />
　東光電気では給料の遅配が続いた。不景気の風に対抗するためにいろいろな処置を取ったようだったが、簡単には回復しなかった。しかし、そうは言っても従業員は生活のために闘わねばならず、とうとうストライキに突入。（中略）組合運動をしている中で、私は素晴らしい友人にも出会った。その一人が金岡幸二氏。富山県出身で東大の計測工学科を卒業して東光電気に入社、私より四歳くらい若かった。同志として会社側と闘った。会社側の意向で人員整理が始まると、私が一番に名前が上がったが、金岡氏の名前はなかった。しかし、私と同じ時期に会社をやめて郷里に帰った。<br />
<br />
　川上は東大に戻って金属組成の研究を続け、東北大学助教授の口がかかったとき、長野県塩尻にある妻の実家が破産寸前に追い込まれた。1952年、やむを得ず塩尻に戻り、その家業を継いで「株式会社カワカミ」を起こし、のちには松本調理師専門学校を創設している。カワカミは名物駅弁「岩魚ずし」の本家であって、現在も塩尻駅で売られている。<br />
　富山に戻った金岡は北陸製塩に入った。大日本精糖、日本鋼管、北陸電力などが、海水から食塩やマグネシアクリンカー、臭素などを抽出しようという壮大な計画のために共同で設立した技術開発会社である。ここで企画部長になった。<br />
<br />
　やや遅れて、同様に挫折感を抱いて富山市に戻った青年がある。その青年の名は中尾哲雄といった。のちに金岡のあとを受けてインテックの社長となる。<br />
　中尾は高校三年生のとき結核に罹ったが、病いを隠して上京し、大学進学を志した。ところが下宿生活の栄養不足がたたって喀血し、故郷に戻らざるを得なかった。療養しつつ富山大学経済学部に通い、1960年に日興証券に入社した。<br />
　「ストレプトマイシンという特効薬が効いた」<br />
　と中尾は言う。<br />
　証券会社の仕事を通じて金岡と知り合い、あるいは不二越の井村荒喜と懇意になった。その井村の紹介で富山商工会議所に入ったのは1965年春のことだった。<br />
このとき、商工会議所では<br />
　――当地にも計算センターをつくろうではないか。<br />
　という話が持ち上がっていた。薬種の取扱い品目が多品種にわたり、事業者は中小零細でありながら「富山の置き薬」は全国に広がっていた。この計算業務だけで膨大な人手を必要とし、従来の大福帳による販売管理では大阪の製薬メーカーに圧倒されてしまう。<br />
　地元の有力企業も出資するというところまで話がまとまり、社長を選ぶ段になって金岡が大きく浮上した。東大出である。かつ、「金岡家」の次期当主ではないか。<br />
　だが、北陸製塩の企画部長からいきなり社長というのは性急に過ぎた。そこで地元経済界を代表するかたちで加越能鉄道社長、高岡文化ホテル社長を兼務し、元北陸電力副社長である西泰蔵が社長に推され、金岡が代表権を持つ専務ということになった。<br />
　金岡は、実兄が通産省の工業技術院に勤めていたことや、奉天航空隊で同期だった山本卓眞が富士通信機製造で電子計算機の開発に従事していたことに刺激を受けていた。さらにいえば、地元経済への貢献を是とする家風があった。<br />
<br />
<br />
　　　　　３<br />
<br />
　機種の選定を任された金岡は、国産、外国製の主要な計算機をつぶさに調査し、技術的にUNIVAC機が最も進んでいるという結論を出した。この時点では正しい選択であった。<br />
　1964年１月11日、富山相互銀行、富山地方鉄道を中核に、資本金1000万円で「株式会社富山計算センター」が設立された。本社は富山市入船町31番地に置き、北日本放送局の旧送信所（鉄筋平屋約180平方メートルと木造平屋約17平方メートル）を間借りし、３月10日にUNIVACのパンチカード・システムが設置された。<br />
　県経済界をあげての新会社であったため、役員には錚々たる顔ぶれが名を連ねたが、従業員は17人しかいなかった。この中に岩田三郎（のち計算部長、東京事務所長）、松野勲（のち大阪センター所長）などがいた。<br />
　営業、打ち合せ、パンチカードの納品、採用などは金岡がすべて一人でやった。商工会の会員としてセンターの設立には参加したものの、自社の計算業務はソロバンで十分という経営者が少なくなかった。財布の中身を知られるのが嫌だという感覚が強かったため、日本海瓦斯、細川機業、富山地方鉄道など地元企業からの受託計算から始まった。富山市など地方公共団体、北陸電力などに事業が拡大するのはのちの話である。<br />
　「最初はカツカツだった。社員の給料を払うと何も残らない。毎日、仕事を探して県内を飛び回った」<br />
　難物は雪だった。<br />
　富山市内は日本海に近いのでそれほどでもないが、高岡、礪波などは雪が深い。現今のように高速道路はなく、国道といえども消雪施設は完備していない。山越えの道は路面が凍結し、チェーンをつけていても車輪が空回りした。<br />
吹雪にあって立ち往生したこともあった。<br />
　「雪の道と悪戦苦闘しながら、納品したものでした。一度、カチンカチンに凍った雪に足を滑らせてね。持っていたパンチカードが一面に散らばってしまった。<br />
かき集めはしたものの、使い物にならない。<br />
　――社員が苦労して打ち上げたのに……。<br />
　と思うと、口惜しくてね、涙が出た。<br />
　雪に濡れたカードを見せて頭を下げ、もう一度、全部打ち直したこともあった」<br />
　そんなことを、金岡はよく語っていた。<br />
<br />
<br />
　　　　４<br />
<br />
　創業期における同社の転機は二つある。<br />
　一つは1966年１月、日本通運の新潟支店から電子計算機の運用まわりを依頼されたことだった。日本レミントン・ユニバックは日通新潟支社にUNIVAC1004モデル―Ⅱを納めたものの、「システム・サポートは当社の領域ではない」として富山計算センターに再発注したのである。同社にとって初めての県外営業所の設置となった。これがきっかけとなって、金岡はプログラム開発と計算処理の受託、さらに運用までを一貫するサービスの可能性に気がついた。<br />
　第二の転機は翌67年である。三菱電機の富山商品営業所との取引きが始まった。これは三菱系列で地元の富山交易から売掛管理業務を受託したのがきっかけとなった。営業所の受注・販売管理業務を受託し、そのサービスの品質が好評だった。<br />
きっかけが、新しいきっかけを生む。<br />
　折から三菱電機の本社でも商品管理の電算機処理を本社による集中処理に転換する作業が進んでいた。システムの変更とオーバーフローの問題から、富山商品営業所が高く評価している富山計算センターに全面的に委託する話がまとまった。<br />
　東京都世田谷区池尻にあった三菱世田谷ビル内に東京事務所が開設されたが、このことは計算センター業界にとって“事件”以外の何ものでもなかった。天下の三菱電機が、名も知れぬ地方の計算センターに業務を委託する、というのである。<br />
　――東京事務所の開所式は六八年二月三日午前十一時から、恵まれた天候の下で関係者約二百人を集めて盛大に行われた。<br />
　と同社の広報誌「広報計算センター」２月20日付号は記している。<br />
　続いて同年、名古屋、1970年に仙台、大阪と全国展開がスタートした。<br />
　この間、富山センターの計算機をUNIVAC120からUSSCにレベルアップしたが、パンチカード・システムからストアド・プログラム・システムへの転換がうまく行かなかった。日本能率協会に勤めていた下條武男と知り合ったのはこのときである。<br />
　「エクスターナル・プログラミングとカードの運用から、インターナル・プログラミングと磁気テープの運用への転換というのは、それこそシステムの概念がまるっきり違う。社員は手探りでバタバタやっているし、計算機はうまく動いてくれない。そこで下條さんにコンサルティングをしてもらった」<br />
という。<br />
　「スムーズな運用ができるようになるまで、２年か３年かかったのではなかったか」<br />
　要員の養成に時間がかかったのである。<br />
　1967年に下條が独立して「日本コンピュータ・ダイナミクス」というシステム設計とプログラム作成の専門会社を東京・恵比寿に設立したとき、金岡は諸手をあげて賛成し、資本金100万円のうち20万円を出している。<br />
　後年、下條は<br />
　「系列化してやろうとか、うまく儲けてやろうというような、俗っぽい欲がまったくない、純粋な人でした」<br />
　と語っている。<br />
　このあたり、裕福な家に生まれた者に特有な屈託のなさというべきかもしれない。<br />
<br />
<br />
　　　　５<br />
<br />
　地元経済界に支えられ、さらに三菱電機という強力な顧客を得た富山計算センターは、順調に事業を拡大していった。<br />
　1972年度における同社の状況は次のようであった。<br />
<br />
【本社所在地】富山市桜橋通り１―18（富山本社）。<br />
　　　　　　　東京都港区芝西久保明舟町12―１（東京本社）。<br />
【計算センター】札幌、仙台、新潟、富山、高岡、東京、名古屋、大阪。<br />
【資 本 金】１億5000万円。<br />
【従業員数】547人。<br />
【売上高】17億円。<br />
【業務内容】①受託計算②データ入力③ソフト開発④要員派遣。<br />
【使用機械】UNIVAC　USSC、MELCOM7700、FACOM230―25、MELCOM3100―10Ｔ。<br />
<br />
　従業員の数で比較すると、同じ時期、計算センターの最大手は日立製作所系列の日本ビジネスコンサルタント（のち日立情報システムズ）が1,400人だった。これに次ぐのは富士通系列の富士通ファコム（のち富士通エフ・アイ・ピー）が1,000人、日本証券金融系列の日本電子計算の900人であって、それに続いて東京・大阪など大都市圏にある計算センターが三番手グループを形成していた。すなわち、協栄生命系列の協栄計算センター（のちアイネス）が400人、伊藤忠商事系列のセンチュリ リサーチ センタ（のちCRCソリューションズ）が480人、住友銀行系列の日本情報サービスが420人、三和銀行系列の東洋コンピュータサービス（のちTIS）が450人、独立系の日本計算センター（のちサイコム）が400人である。という状況の中で従業員547人というのは全国第４位の規模ということになる。<br />
　気がついたとき、いつの間にか富山計算センターは全国で第４位、独立系であり、かつ地方都市に本社を置く企業ではトップに位置していた。<br />
　――地方計算センターの希望の星。<br />
　重責が、金岡の肩にかかってきた。<br />
　富山計算センターは創業から数年で計算センターの“大手”に数えられるまでに成長した。独立系かつ地方に本社を置く計算センターにとって“希望の星”になった。だけでなく、金岡は計算センター業の情報交換の場も作った。1967年に発足した任意団体「日本計算センター協会」がそれだ。<br />
　日本計算センター協会発足時の参加企業は次の32社であった。<br />
<br />
日本計算センター、青山電算、いすゞ協和会経営合理化センター、日本コンピュータ・ダイナミクス、日本ビジネスコンサルタント、東京計算センター、富山計算センター、中央計算センター、中経計算センター、横浜電子計算センター、長野電子計算センター、能研電子計算センター、熊本電子計算センター、郡南計算センター、群馬電子計算センター、山梨電子計算センター、コンピュータシステム、データー・プロセスコンサルタント、札幌電子計算センター、協栄計算センター、岐阜電子計算センター、宮崎電子計算センター、昭和計算センター、商工計算センター、社会調査研究所、四国電子計算センター、広島計算センター、東日本計算センター、姫路電子計算センター、ビー・シー・シー、備後電子計算センター、セントラル電子計算センター。<br />
<br />
　事務局は東京都世田谷区池尻３―10―３三菱世田谷ビル内の富山計算センター東京事務所に設置されていた。<br />
　こののち、大阪電子計算、関西コンピュートセンター、県南電子計算センター、システム開発、システム・サービス、高崎共同計算センター、中央電算研究所、中部産業計算センター、都築ファコムセンター、東京実業計算センター、東北経営計算センター、東洋ソフト・ウェアー、東洋コンピュータ・サービス、名古屋会計計算センター、日本科学技術研修所電子計算機センター、日本経営情報研究所、日本計算器販売、三菱大阪商品計算センター、万代コンピュート・コンサルト、ビジネス・コンサルティング・センター、山形電子計算センター、日本電子計算機専門学校、東京芝浦電気、日本ユニバック、三菱電機、日本電気が加わって、大所帯になった。<br />
　すでに日立系のHITAC計算センター・ネットワーク協議会、富士通系のFACOM電子計算センター協議会が発足していて、日本IBMはユーザー会の一部として計算センターの集まりを設けていた。残るのはUNIVAC系かNEAC系、もしくは特定メーカーにこだわらないソフト会社やパンチ会社だった。金岡はその代表に座ったが、他のメーカー系団体と違ったのは「将来は社団法人化をねらう」と明言したことだった。<br />
　「受託計算サービスを業としている会社が集って共通の課題を協議すべきだと考えた。ふたを開けたらUNIVACのコンピューターを使っているセンターばかりになってしまった。これにはちょっとまいったね」<br />
　情報サービス産業協会が発足した1984年の秋、金岡は回想しつつ苦笑して話していた。<br />
　なるほどUNIVAC機を使っている計算センターが８割以上だったが、「独立系」であることに意義を見つけていた金岡は、日本ユニバックに依存しない独自の事務局を設け、毎月、会員の持ち回りで例会を開いた。1968年７月には「米国コンピュータ・サービス産業調査団」を編成して、MIS（Management Information System）の実態調査を行ったりした。また日本ユニバックの営業を統括していた井上敏をたびたび会合に招いて、メーカーとサービス会社の関係はどうあるべきかを論議した。<br />
　「メーカーと対立するとか対決するとかいうのではなく、サービス業はメーカーの下請けであってはならない、という考えがあった」<br />
　と金岡はのちに語っている。<br />
<br />
<br />
　　　　　６<br />
<br />
　「サービス業が業として確立していかなければならない。そう考えると、一般のコンピューター・ユーザーと一緒に、特定メーカーのユーザー会の中でサービス業固有の問題を論議してもどうにもならない」<br />
　サービス業固有の問題というのは、料金設定だった。受託計算の対価をどう見積るか、カードパンチ、マシン・タイム販売の料金はどうか、オペレーター派遣料の算定基準はいかにあるべきか。さらには、オンライン・サービスにおける通信回線の利用規制問題が大きな課題だった。<br />
　この問題はTSS（Time Shering Service）で手痛い挫折を味わった日本計算サービスの加毛秀昭や、親会社の業務を代行するかたちで規制の壁にぶつかった野村電子計算センター（のち野村総合研究所）の大野達男などの共感を得た。アメリカでは受託計算サービスがオンライン・サービスに転換しつつあったが、日本では電電公社の存在が障壁となっていたのである。<br />
　当時のことを回想して、のち金岡幸二の急逝を受けて社長に就任した中尾哲雄が次のように言う。<br />
<br />
　東京に支社をつくったころ、わたしは富山商工会議所の課長で、県内の事業者からの事務　　機械化や合理化の相談に乗る立場でした。コンピューターの利用を勧め、「富山計算センターというのがあるから、そこに仕事を任せればいい」というようなアドバイスをしていました。<br />
　そのころ金岡さんは社名を変えることを真剣に考えるようになっていました。商工会議所のわたしのところにやってきて、「何かいい名前はないだろうか」というのです。これから全国に事業を展開する。いつまでも「富山」では不都合ではないか。社名からこの二文字を外したい、というんです。<br />
　金岡さんはすでに腹案を持っていました。<br />
　「ＩＴ」「ＩＣ」だというのです。<br />
　「何ですか、それは？」と尋ねると、<br />
　「ＩＴというはインフォメーション・テクノロジー、ＩＣはインターナショナル・コンピュテーションのことだよ」<br />
　という答えでした。<br />
　さすがに東大出は違うな、と思いましたね。<br />
　どうしたものだろう、と言いながら、それとなくわたしに地元の出資企業への根回しを依頼したかったのでしょう。金岡さんは代表取締役専務だし、経営基盤を固めた実績の持ち主でもあるけれど、富山計算センターは金岡薬店の子会社じゃない。地域の共同センターという役割を担っていました。だから、社名から「富山」の名前を外すには、いまふうにいえばコンセンサスが必要でした。<br />
　「斬新だとは思いますが、横文字を地元が受け入れますかね」と答えた記憶があります。でも金岡さんはその年の役員会で本当に社名変更の議案を持ち出し、「これからはインターナショナルな時代である。かつインフォメーションの時代でもある。富山の名にこだわるべきではない」と打上げた。<br />
　これは否決されました。出資者たちはその意味を理解できなかった。それに英語風のカタカナの社名はソニーとかカルピス食品、サントリー、ブリヂストンとかはあったけれど、新しすぎるというか、何となく軽薄に受け取られたのでしょう。<br />
　しかし金岡さんはあきらめなかった。このころすでに、全国オンライン網の構築が視野に入っていたのだと思います。それとソフトの重要性に気がついていたんですね。「ソフトとは何であるか。コーディングされたプログラムではなく、知識の集約そのものである」ということを、しきりに強調していました。<br />
　金岡さんという人は、大学の専攻は工学ですけれど、一方で非常に文学的な思考回路も持っている人でした。これはもうちょっとあと、わたしが一緒に仕事をするようになってからのことですが、「仕事の話はこれくらいにして、哲学のことを話そうじゃないか」と切り出されたことが何回もありました。会社の経営というものを金勘定だけじゃなく、理念というか哲学に高めていったのは、この時期ではなかったかと思います。<br />
<br />
　1970年10月、大阪に支社を出したのとタイミングを合せ、金岡は社名を「インテック」に改めた。かねてから主張していた企業コンセプトがあった。<br />
　「Information-Technology」と「International-Computation」である。この二つに、「Integrated Technology（統合化技術）」「Intellectual-Echelon（知的集団）」の意味が新たに加えられた。おそらく「ＩＴ」を社名に盛り込んだ最初の会社であった。<br />
　以後、金岡は1970年２月に通産省の肝いりで社団法人・日本情報センター協会が発足するに当たって、コトの成否を左右する役割を負う。さらにのち電気通信事業の自由化をめぐっては、早期の自由化に向けて精力的に動き、ついに1985年４月の電気通信事業法施行を実現した。<br />
<br />
<br />
　　　　付記<br />
<br />
　やや鼻にかかった、ときに甲高い声音の持ち主だったが、温厚で人当たりのいい話し方をした。一事を成した人に共通することだが、この人も笑顔がよかった。最後に会ったのは亡くなった年の１月、東京・大手町の経団連会館かどこかで開かれたインテック東京本社主宰の新年会だったと記憶している。<br />
　バブル経済の破綻が、ソフト／サービス業界に深刻な影響を与えつつあった。金融機関をはじめ鉄鋼、自動車、電機など大手企業が軒並み新規のシステム開発を手控え、進行中のプロジェクトでさえ中断して景気の成行き――どこまで悪くなるか――を見守っているときだった。<br />
　懇談会の最初の挨拶で、金岡はそのことに触れ、<br />
　――ネットワーク・サービスの分野への影響は軽微ではないか。<br />
　という見通しを話した。その理由は次のようなものだった。<br />
　景気が悪くなれば、その分、ネットワークの利用は増える。例えば出張費を圧縮する代わりに、情報通信を活用するようになる。物流の伝票処理などは、電子データ交換、すなわちEDIが主流になるであろう。全国規模の基本VANサービスを追求してきた当社の出番である。<br />
　しかも情報通信サービスは企業ばかりでなく、社会全体、さらに家庭や個人にまで浸透し、付加価値の高い様々なサービスが次から次に登場する。個人向けに提供されているパソコン通信も、そのうちに音声や画像が追加されるだろう。ここでも当社の技術が生きる。<br />
　さらに中長期的な展望でいえば、コスト削減を求める企業ユーザーが情報システムのアウトソーシングに踏み切るようになるであろう。全国にセンターを持ち、基幹ネットワークを独自に構築している当社にとって有利な条件がそろう。また製造業や金融業の大手に独占されてきた優秀な人材が、わが業界にも回ってくる。これも有利な条件として作用する。<br />
　聞きながら、<br />
　――珍しく強気だ。<br />
　と思った。というより、ムキになっているのではないか。１一部上場の情報サービス会社――当時、東証１部に上場していた情報サービス会社は数えるばかりしかなかった――として、記者の前で弱気な発言をすれば業界全体にマイナスのイメージを与えてしまう、ということを考えたのではないか。<br />
　乾杯のあと、懇談になった。ワッと集まった記者たちの輪がほどけ、ふと金岡が一人になったのを見て挨拶に行った。<br />
　「ちょっと投資が大きすぎましたね」<br />
　すると金岡は顔を寄せ、同じように小声で、<br />
　「ちょっと、ね」<br />
　と言った。そのとき、あごに剃り残しが見えた。だから何だ、ということもないのだが、そのことが妙に記憶に残った。<br />
　投資、と言ったのは、その前の年（1992年）、基幹ネットワークの再構築に総額百億円を投入すると発表したことを指していた。加えて、富山市に新本社ビルを建設中だった。売上高が600億円ほどだったインテックには、やや荷が重い投資ではなかったか。<br />
　<br />
　同氏は偶然、筆者と誕生日が同じだった。そういうこともあって、何かと好意的に扱ってくれたように思う。日本情報センター協会、情報サービス産業協会の会長選任のときになると、必ず候補にあがったが、郵政省と通産省との綱引きが邪魔をして、遂に業界トップに立つことがなかった。この人の急逝を知ったとき、「ＩＴ業界はどうなってしまうんだろう」と、しばし呆然としたことを覚えている。<br />
<br />
<br />
]]>
    </description>
    <category>索引　か</category>
    <link>https://kisyakai.blog.shinobi.jp/%E7%B4%A2%E5%BC%95%E3%80%80%E3%81%8B/%E9%87%91%E5%B2%A1%E5%B9%B8%E4%BA%8C%E6%B0%8F%E3%80%80%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%86%E3%83%83%E3%82%AF%E5%89%B5%E6%A5%AD%E8%80%85</link>
    <pubDate>Mon, 05 Sep 2011 00:08:46 GMT</pubDate>
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  </item>
    <item>
    <title>野﨑克己氏　TDCソフトウェアエンジニアリング創業者</title>
    <description>
    <![CDATA[<a href="//kisyakai.blog.shinobi.jp/File/624667ce.jpeg" target="_blank"><img src="//kisyakai.blog.shinobi.jp/Img/1315144561/" border="0" alt="" /></a><br />
<br />
<br />
　　　　１<br />
<br />
　この人物は社団法人ソフトウェア産業振興協会発足時の主要メンバーとしてソフト／サービス業界の基盤整備に尽力し、全国情報サービス産業厚生年金基金やソフトウェア情報センターの創設に貢献した。さらに情報サービス産業協会常任理事を長く務めた。そのことを知らない人はまずいないが、この人物がプログラムの受託開発に道を開いたことは、意外に知られていない。<br />
野﨑は1928（昭和3）年東京に生まれ、私塾を開いていた河上丈太郎に師事した。河上は無産主義的労働運動推進者――戦前、日本労農党を経て社会大衆党の国会議員として当選10回の古参――であるにもかかわらず、野﨑が知り合ったときはGHQによる公職追放の最中にあった。1940年に大政翼賛会総務に就任して以後、1945年8月15五日までの言動が問われたのである。公職追放解除ののち日本社会党委員長。<br />
　その勧めで立教大学に進んだ。<br />
　1951年の春、立教大学経済学部を卒業し、八幡製鉄の子会社である「北日本砂鉄鉱業」に入社した。この会社は北海道の長万部に鉱業所を持ち、海砂から日産3000トンもの砂鉄を採掘していた。函館本線「国縫（くんぬい）」駅はこの鉱業所のために設けられ、日本海に抜ける瀬棚線の起点でもあった。<br />
　配属先は経理課であった。優秀な経理マンであったと見えて、30歳の若さで部長に昇進した。<br />
　北日本砂鉄鉱業に入社したきっかけについて、野﨑は、「たまたま親父（おやじ）の知り合いが社長をしていたんだ」と言う。<br />
　朝鮮戦争の特需で産業界は賑わっていたが、戦後の失業者を吸収するのが精一杯で新卒者が仕事を見つけるのは決して楽ではなかった。経済学を学んだのなら分かるだろうということで経理部に配属され、ここで見る見るうちに頭角を現わした。入社10年で経理部長になった。<br />
　取引先銀行として毎日のように訪れていた富士銀行数寄屋橋支店の四階に、事務センターがあった。そこには早くからUNIVACの「USSC」が入っていた。1960年のこと、折から「IBM1401」を導入する準備をしているときだった。これがコンピューターと出会うきっかけとなった。自社の経理にもコンピューターを活用できるのではないか、と考えたのだ。<br />
　このとき石﨑純夫も同じ場所に居合わせていたはずだが、野﨑も石﨑も「そういえばそうだったかもしれない」という程度の記憶しかない。野﨑はバッチ処理の窓口と接触していたし、石﨑はUNIBAC機でオンライン・システムの開発に携わっていた。部門が違ったのである。プログラマーとして石﨑の下で働いていた鳥飼將迪が野﨑のことを記憶していた。鳥飼はのち富士銀行システム部長となり、現在はローレルインテリジェントシステムズ会長。<br />
　「計算機に興味を持つお取引先が頻繁に見学に来られました。わたしはその案内係でしてね。その中に、たしかに北日本砂鉄の野﨑さんという方がおられました」<br />
　日本IBMは自社のカスタマーを対象に、講習会を開いていた。野崎は「富士銀行の職員」ということにしてもらって１週間の講座に参加した。調べると、当時、日本IBMが行っていたユーザー向け講習会のうち１週間だったのは管理者向けセミナーである。以後、ことあるごとに時間を作り、２年がかりで技術者向けの講座まで受講し、「IBM1404の論理回路までマスターした」と野﨑はいう。ところが北日本砂鉄鉱業は、計算機の導入を見送ることになってしまった。<br />
　「そこまで自力でマスターしたんだ。口惜しいじゃないか」<br />
　親会社である八幡製鉄の経理部や、富士製鉄の機械計算課の課長たちに相談すると、「パンチの仕事を出してもいい」という話だった。八幡製鉄と富士製鉄は戦前の「日本製鉄」が過度資本集中排除法で分離された関係から、総務・経理部門に共通の知己がいたのである。さらに富士銀行に相談すると、ここもパンチの仕事を出すという。<br />
「それで独立しよう、という腹を固めたんだ」<br />
　と野﨑はいう。<br />
　その足で会社に戻り、社長に本心を告げた。引き止められたが、気持ちはすでに決まっていた。1961年の晩秋のことだった。<br />
<br />
<br />
　　　　　２<br />
<br />
　開業したのは1962年の春である。「東京機械計算事務所」を名乗った。公認会計士が個人で事務所を開くのと同じ感覚だった。八幡製鉄、富士製鉄、富士銀行の機械計算課からカードパンチの仕事が発注されることになったが、肝心のパンチマシンがない。<br />
　「パンチマシンは日本IBMかUNIVACしかなかった。まだジューキなんかは作っていなかったから、純正品を使うしかない。ところが日本IBMも日本ユニバックも個人は相手にしてくれない。個人にレンタルするなんていうのは今でこそ可能だけれど、当時はまったく可能性はなかった。そこで知り合いに頼んでね」<br />
　その知り合いというのが誰なのか、野﨑は「有力な自民党の政治家」というだけで名前を明らかにしない。「水田三喜男であった」という説がある。あるいは「野﨑さんから、田中角栄という名前を聞いたことがある」という人もいる。水田とすれば当時の第２次池田内閣の大蔵大臣、田中とすればあえて述べる必要はない。どのような伝手であったのか、河上丈太郎といい、野﨑は幅広い人脈を持っていた。<br />
　マシンばかりでなく、パンチャーも確保しなければならない。<br />
　「丸の内のビル街でチラシを配ったんですよ。丸の内にオフィスがある大企業は、パンチャーを抱えていましたからね。仕事が終わったあと、アルバイトをしませんか、と誘ったわけです。それで何とか凌ぎました。そうこうしているうちに小野田セメントなどを結婚退社したパンチャーが11人そろいましてね、何とか会社らしくなったんです」<br />
　パンチ業が軌道に乗るとみた翌1963年12月、野﨑は東京都港区芝神谷町に「株式会社東京データーセンター（TDC）」を設立した。目と鼻の先、東京タワービルの中に当時の計算センターでは国内最大規模を誇った日本EDPがあり、新橋五丁目の浜ゴムビルにファコム（のちの富士通ファコム、現富士通エフ･アイ･ピーの前身）があり、芝公園に日本能率協会のEDP研究所があった。そこからもカードパンチの仕事が入ってきた。中島朋夫、下條武男、田部雄三などと知り合ったのはこの時期だった。<br />
　日本EDP、ファコム、日本能率協会はともに、受託計算サービスを手がけていた。野﨑はそれにヒントを得て、パンチ業務を縮小して、今度は受託計算サービスを手がけることにした。<br />
　パンチ業務については縮小せざるを得なかった事情があった。元日本IBMの社員でTDCの部長職にあった渋木徹が1964年9月にスピンアウトし「株式会社日本データ・センター」を設立したのである。受託計算サービスに転換しようとしていた矢先だった。<br />
　「ショックがなかったというと嘘になるけれど、売上げの上で会社そのものを揺るがすほどではなかった。その後、渋木さんは独自の努力で会社を立派に発展させましたから、それはそれで結構なことだと思いましたよ」<br />
　野﨑が言うのは、渋木がTDCの顧客を持ったまま独立せず、自力でユーザーを開拓したことを指している。渋木は“フェアな独立”をしたわけだった。<br />
ちなみに1972年度の日本データ・センターの概要は次のようだった。<br />
　　【本社所在地】東京都港区新橋2―16―1701。<br />
　　【事　業　所】本社、仙台、郡山、三島。<br />
　　【営　業　所】日本橋、麹町、市ヶ谷、大手町、品川。<br />
　　【資　本　金】3,500万円。<br />
　　【従業員数】253人。<br />
　　【事業内容】①受託計算10％②ソフト開発20％③ファシリティ・マネージメント10％④パンチ60％。<br />
　　【売　上　高】1971年度6億2,000万円。<br />
　この会社は、ややあってパンチャーの腱鞘炎問題で労働争議が勃発した。ほどなく、経営者の渋木徹が急逝するという不幸に遭遇した。それがきっかけとなって事業は縮小をたどり、いっときは解散の瀬戸際まで追い詰められた。だが取引先だった日本EDPが経営支援に乗り出し、会社を存続することができた。現在も東京・高田馬場にある。<br />
<br />
　　　　　３<br />
<br />
　この原稿を書くために筆者が野﨑にインタビューをしたのは、2003年の秋、場所は東京・新宿のTDCソフトウェアエンジニアリング本社だった。<br />
　JR新宿駅南口を出て甲州街道を横切り、明治通り沿いに歩いて７、８分。この会社が移転してきた当時は繁華な東口方面と比べ、ややうらびれた風情があった。今はデパートの高島屋が進出し、りんかい鉄道線や横須賀線、埼京線に直通する新しいホームができ、甲州街道を渡ったところに、改札口が新しくできている。ペデストリアン・デッキ風のコンコースを歩き、エスカレーターで降りればいい。<br />
　十余年で街の景色が一変した。<br />
　その本社に、社主である野﨑のために用意された特別室がある。計算センター業を始める決意を固めるまでの話を聞いて、筆者は訊ねた。<br />
　「そうは言っても、計算機がないじゃありませんか」<br />
　すると、野﨑は例の「ハッ、ハー」という笑い方をして言った。<br />
　「ユーザーの企業に設置されている計算機を使わせてもらったんだよ」<br />
　計算機を持たない計算センターがここに誕生したわけだった。<br />
　銀行や生命保険会社、電力会社などの計算機は、夜間になるとまったく使われていなかった。それを使った。のちに「マシン・タイム販売」は計算センターの重要な収入源の一つだったが、野﨑は計算機を保有している企業にマシン・タイム販売をしてもらって仕事をこなしていった。<br />
　「バロースのB205とか日本電気のNEAC2206とか、空いている計算機なら何でも使いました。こっちは日本IBMの講習で基本ソフトから論理回路まで分かっている。メーカーが違ったって理屈は同じだろう、ってな感じで取り組んだもんさ。リレーのワイヤリングも難しくなかった」<br />
　その気になりさえすれば突破口は見つかるものである。とはいえ、計算機が空いているのは深夜か休日に限られた。まして夜間のビルは出入りができない。計算機室は真夏でも鳥肌が立つほど冷房が効いていた。その冷気のなかで一晩過ごすのだから、夜食だけでは体温が保てなかった。<br />
　「アルコールが強くなったのはそのせいだな」<br />
　今にして野﨑は笑うが、当時は必死だった。運転資金がなかった。パンチマシンのレンタル料とパンチャーの給与、オフィス代などを払うと手元にはわずかしか残らなかった。銀行が相手にしてくれないため、自身の給与を社内留保に回すしかないではないか。<br />
　「最初の３年半は無給だった。でもね、自分の会社のためだと思えば苦労じゃなかった。特に女房には迷惑をかけたな」<br />
　独自の計算機を持ったのは1966年の11月だった。その前年、TDCは神田神保町に本社を移転し、計算機を入れる準備に入っていた。併せてファコムを通じて、富士通からもパンチの仕事が発注されていたことから、野﨑は電子計算機の開発部隊がいる武蔵中原の工場に頻繁に足を運び、富士通の計算機がどんなものかを確かめている。<br />
　「もともとメカ好きなものだからね、川崎工場の人たちの議論に参加させてもらったり、一緒に合宿したこともありました」<br />
　川崎工場には、尾見半左右を筆頭に、小林大祐、青木幹三、池田敏雄、山本卓眞、黒崎房之助、野沢興一、岩井麟三、岡本彬、安福眞民、吉川志郎、稲葉清右衛門、山田博、平野輝雄、石井康雄、井上直敏など、のちの時代から振り返ると錚々たる顔ぶれがそろっていた。その関係からFACOM230―20を導入することにしたのである。<br />
　このとき富士通は「TDCに設置する計算機をデバッグ用に使わせてほしい」と申し出た。<br />
　それは富士通の計算機営業を担った小林大祐が考え出した新しい拡販方式だった。<br />
　計算センターにFACOM機を設置し、それを富士通がFACOM機ユーザー向けに作るアプリケーション・プログラムのデバッグに使う。併せて見込み顧客に見せるデモやテストにも利用する。もちろん導入に当たっては日本電子計算機のレンタル制度を適用できるよう取り計らう。使用した分に応じて富士通が賃貸料を支払うというのである。システムズ・デザインの岡崎司や岡山電子計算センター（のち両備システムズ）の八木富士夫も、その方式に魅力を感じてFACOM機を入れている。<br />
　「当時の金で月額250万円だった。富士通がどんどん使ってくれたので月々のレンタル料は何とかなった。けれどオンラインで計算サービスをやろうとすると、とても投資ができない」<br />
　オンラインシステムの開発は１件当たり２億円、といわれていた。<br />
　「いつ採算が取れるか分からない。こりゃ計算センターはたいへんだぞ、と思った」<br />
　という。<br />
　折から富士通はFACOM230シリーズの上位機「モデル50」の開発に取り組んでいた。中でも基本プログラム「MONITOR」の開発に割り当てるプログラム作成要員が不足していた。TDCに応援の要請がきた。<br />
　「川崎工場にプログラマーを派遣してほしい、というんです。派遣すれば月額いくらで間違いなくお金が入ってくる。富士通の工場で仕事をしながら技術を覚えることができる。そんないい話はないように見えた。けれど、待てよ、と考えた。それなら自社のFACOM230でプログラムを作って富士通に納品すればいいじゃないか」<br />
　それまで富士通がTDCに支払っていたマシン・タイム販売の代金を、プログラム作成費に置き換えて請求できるのではないか。プログラムの代金を人件費で算出せず、マシンの使用時間に換算するのである。<br />
　はじめ富士通は「基本プログラムの開発を外部に委託することはできない」と主張した。前例がなかった。<br />
　これに対して野﨑は言った。<br />
　「基本設計を富士通が行い、当社が作ったプログラムを検収すれば済むことではないか」<br />
　プログラムの受託開発がこうして有償化された。<br />
<br />
<br />
　　　　　４<br />
<br />
　同社の記録によると、大型計算機用の基本プログラムの開発を受託したのは、〔本社を中央区新川に移転した1967年9月から〕ということになっている。この時点では「OS」という概念がなく、「システムズソフトウェア」と呼ばれていた。いずれにせよ富士通の資本が一銭も入っていない独立系企業が基本プログラムの作成を受託するというのは例がなかった。<br />
　以後、野﨑は計算センター業務を堅持しつつソフト事業を拡大していった。富士通はFACOM電子計算センター協議会（現在のFCA）に加入するよう勧めたが、野﨑は「当社はソフト会社である」と主張して譲らなかった。<br />
　大型計算機を独自に保有するソフト会社は、日本中どこを探してもなかったはずである。1970年6月に社団法人ソフトウェア産業振興協会が発足すると同時に加盟し、発足２年目の1971年度から理事を務めている。<br />
　のち、野﨑は当時を振り返って、「丸森さんや舟渡さんと、戦前の青年将校になったつもりで動き回った」と述懐している。<br />
　「丸森さん」はソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ（現ＳＲＡ）の丸森隆吾氏、「舟渡さん」は日本コンピューター・システムの舟渡善作氏。<br />
　先回りして記述しておくと、野﨑は1979年度から1982年度まで４年にわたってソフトウェア産業振興協会副会長を務め、1982年２月に日本情報センター協会と共同で「情報処理産業厚生年金基金（現在の全国情報サービス産業厚生年金基金）」を創設するのに尽力した。年金基金が発足した時の加入事業所は157社、加入員１万9,597人だった。ソフト協が単独では成立しないプロジェクトだった。大型計算機を保有しているということが、日本情報センター協会との橋渡し役として適任だった。<br />
　東京データーセンターは1987年に社名を「ティーディーシー」に、さらに1986年「ＴＤＣソフトウェアエンジニアリング」に変更し、1997年株式を公開、2001年東京証券取引所２部、2002年東証１部に上場している。1992年藍綬褒章、1994年会長、2000年相談役。<br />
　本書の取材で面白い発見があった。<br />
　古い資料に自ら「正晃」と署名した文書があった。調べると、1970年までは本名の「克己」、1971年から1986年まで「正晃」で通し、1987年から再び「克己」に戻している。「正晃」を名乗ったのは、「当社はソフト会社である」ということを内外に示して以後であって、社名を「ティーディーシー」に変えるまでの時期と一致している。名乗りを改めた事情を本人は詳しく語らないが、想像するに心機一転、別人になったつもりで改めて社業に専念しようと決意したのではあるまいか。<br />
　さらにいえば、それは事業の高度化ないし付加価値化を追求した時期であった。会社設立から10年を経た1972年の従業員数は150人、売上高は５億円強だった。その10年後の1982年の従業員数は倍の300人、売上高は22億円、再度の社名変更を行った1986年は360人で30億円である。「ソフトのウエイトを高め、単品の受託開発からシステム構築を一貫して受託できる体制への転換を図った時期だった」と野﨑は語っている。<br />
<br />
　　　　５<br />
<br />
　2004年の5月31日は、前の日と打って変わってひどく蒸し暑かった。<br />
　2週間ほど前、自宅に宛てて、白封筒に入った知らせが届いていた。<br />
　　東京・日比谷の帝国ホテル。<br />
　　午前11時半。<br />
　　孔雀の間。<br />
　その日、朝からどうしてもキャンセルできない役所の用事があった。歩けば10分の距離をタクシーに乗ったのは、気が急いていたためだった。頭の中で時計を逆算し、会場に飛び込んだのは刻限の5分前である。途中、エスカレーターで日本電子計算会長の田中治彦氏と一緒だった。<br />
　――急でしたね。<br />
　――少し体調を崩された、とは聞いていたんだが。<br />
　というような短い会話をした。<br />
　取り急ぎ受付けを済ませ、深呼吸をして息を整えた。<br />
　会場には白布をかけた椅子が並び、後方に数列の空席があるばかりだった。ざっと見渡したところ、参集者は300人ほどだったろうか。それほどの人が着席していたにもかかわらず、会場は静まり返り、たまにしわぶきの咳が聞こえる程度である。<br />
　正面に菊の花に包まれた祭壇が設けられ、よく見知った日焼けした顔が、新宿の高層ビル群をバックにしてにこやかに笑っている。<br />
　野﨑克己――ＴＤＣソフトウェアエンジニアリング株式会社創業者。<br />
　あと半年で76歳になるはずだった。4月28日、脳溢血のため死去。葬儀は親族と関係者で行われ、同社会長である船井一美氏を委員長に、業界関係者向けの「お別れの会」が企画された。<br />
　受付けで渡された小冊子には、次のようにあった。<br />
　生年月日　昭和３年11月１日<br />
　経　歴　　<br />
　・昭和26年３月　立教大学経済学部経営学科卒業。<br />
　・昭和38年２月　東京都港区神谷町で株式会社東京データーセンター（現：TDCソフトウェアエンジニアリング株式会社）を設立　代表取締役に就任。<br />
　平成18年6月～12年6月　取締役会長。<br />
　平成12年6月～　相談役・社主。<br />
業界活動<br />
　・昭和46年5月～昭和58年5月　社団法人ソフトウェア産業振興協会の理事、常任理事、副会長、会長代行を務め、その間――<br />
　・昭和48年10月　通商産業省産業構造審議会　情報化保険制度委員会委員<br />
　・昭和52年16月　協同システム開発株式会社　取締役<br />
　・昭和56年10月　中小企業庁中小企業近代化審議会指導部会情報化分科会委員<br />
　　情報サービス産業従事者の福祉の向上、雇用の安定に取組み「健康保険組合」、「厚生年金制度」の設立に挺身<br />
　・昭和57年12月　情報処理産業厚生年金基金発足と同時に理事に就任<br />
　・昭和63年12月　同基金の理事長を務める<br />
　・昭和61年12月　財団法人ソフトウェア情報センター設立へ貢献<br />
　・平成13年15月　社団法人情報サービス産業協会　常任理事<br />
　・平成12年　現役を引退すると同時に全ての公職を辞任<br />
　　　（自ら定めた定年制に沿って、潔く後進に道を譲った）<br />
賞　罰<br />
　　昭和55年11月　通商産業大臣表彰（情報化促進への貢献）<br />
　　平成元年　藍綬褒章受章（長年にわたる業界発展への功績）<br />
<br />
<br />
　　　　　６<br />
<br />
　「故野﨑克己お別れの会」は粛々と進められていった。<br />
　かつて通産省の情報処理振興課長として野﨑氏らソフト業界の代表者と丁々発止で渡りあった吉田文毅氏、情報処理産業厚生年金基金の創設をはじめ業界活動で二人三脚の相方であった丸森隆吾氏、情報システム安全対策コンサルタントの北村亘氏（ビック情報機器創業者）がそれぞれに送る言葉を語り、現社長の河合輝欣氏が御礼の言葉を述べた。<br />
　参列者が祭壇に花を献じた。ホテルの係りの案内で、列ごとに起立していく。座っていたのは後ろの方だったので、立ち上がった中に見知った顔がちらほらと見えた。この種の会式に参列するのは初めてだったので、どういう感想を抱いていいのかさえ分からなかった。<br />
　自分の番がきた。白いカーネーションを献じながら、<br />
　――教えてもらいたいことが、まだ山ほどあったのに。<br />
　と思った。次のインタビューは６月か７月のはずだった。<br />
　別の会場で軽食が供された。<br />
　一画に、元気だったころに写した野﨑氏のスナップが飾られていた。<br />
　釣りが好きだった。<br />
　酒とタバコだけは、周りが何と言おうと止めなかった。<br />
　奥さんを亡くしたあと、四国遍路を重ねていた。<br />
　３度目の旅を思いついたとき、ふとしたことで足を痛めた。それでも杖を頼りに行った。すべての公職から身を引いたのはそのときだった。<br />
　上機嫌なときは、「ハッ、ハー」という笑い方をした。<br />
　最後の取材――本書のためのインタビュー――を終えて、一緒に部屋を出た。エレベータの中で、あと２、３回、話を聞かせてほしい、ということを伝えた。<br />
　「いいよ、もちろん」<br />
　表に出ると、「じゃ、また」と言って、改めて背筋を伸ばしたように見えた。<br />
　濃紺のスーツに合わせた中折れ帽が似合っていた。足を悪くしてから持つようになったステッキが、なかなかお洒落だった。<br />
　その後姿が、まだ脳裏に残っている。<br />
　東京システム技研の北小路矗氏がいた。体が一回り小さくなって見えた。<br />
　――たまにメールでも下さい。<br />
　と言って、名刺の裏にメールアドレスを書いてくれた。<br />
　アイエックス・ナレッジの安藤多喜夫氏がいた。相変わらずダンディだった。<br />
　元サイコムの加毛秀昭氏がいた。<br />
　――いまは熱海の伊豆山でのんびり暮らしている。遊びにおいで。<br />
　と誘ってくれた。<br />
　日本データ・エントリ協会会長の川口重信氏がいた。電算の河野健比古氏と一緒だった。<br />
　佐藤雄二朗氏がいた。情報サービス産業協会会長という重責にあって、愚痴を吐き出すこともままならない。誰かがその部分を引き受けなければならない。<br />
　日本アウトソースの蓮生重剛氏がいた。<br />
　――書きためてきた原稿を本にして出すつもりだ。<br />
　と話していた。<br />
　キーウェアソリューションの岡田昌之氏がいた。<br />
　――会長に就任したんだが、海外事業の責任者でね。近く海外に飛ぶんだ。<br />
　と意気軒昂そのものだった。<br />
　ＳＲＡの丸森隆吾氏が原稿認めた送る言葉を述べた後、じっと野﨑氏の写真を見上げていたのが印象的だった。形式で済ますわけにはいかない、という強い気持ちが伝わってきた。<br />
　ややあって、<br />
　――野﨑さん、ありがとうございました。<br />
　深々と頭を下げた一言が、丸森氏の心から出た送る言葉だった。<br />
　――同窓会みたいだな。<br />
　誰かが言った。<br />
　式が終わったあと廊下を歩いていると、専務の藤井吉文氏（のち同社社長、会長、相談役）が駆け寄ってきて<br />
　――具合がよくなった。そう言って、たった一日だけ、久しぶりに会社に来られたんです。そのとき原稿に目を通しましてね。うまいもんだ、とたいへん喜んでおられました。<br />
　倒れたのは翌日だった。<br />
　――そのときはもう意識がありませんでね。<br />
　最期まで潔かった。<br />
　原稿というのは、東京データーセンター創業当時のエピソードである。喜んでもらえたと聞いて、救われた感じがした。<br />
　四国遍路の旅の中で、野﨑氏も蝉時雨に足を停めたことがあったに違いない。<br />
　　　　　　　　　　　　　　]]>
    </description>
    <category>索引　な</category>
    <link>https://kisyakai.blog.shinobi.jp/%E7%B4%A2%E5%BC%95%E3%80%80%E3%81%AA/%E9%87%8E%EF%A8%91%E5%85%8B%E5%B7%B1%E6%B0%8F%E3%80%80tdc%E3%82%BD%E3%83%95%E3%83%88%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%8B%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E5%89%B5%E6%A5%AD%E8%80%85</link>
    <pubDate>Sun, 04 Sep 2011 13:39:31 GMT</pubDate>
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