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野﨑克己氏 TDCソフトウェアエンジニアリング創業者




    1

 この人物は社団法人ソフトウェア産業振興協会発足時の主要メンバーとしてソフト/サービス業界の基盤整備に尽力し、全国情報サービス産業厚生年金基金やソフトウェア情報センターの創設に貢献した。さらに情報サービス産業協会常任理事を長く務めた。そのことを知らない人はまずいないが、この人物がプログラムの受託開発に道を開いたことは、意外に知られていない。
野﨑は1928(昭和3)年東京に生まれ、私塾を開いていた河上丈太郎に師事した。河上は無産主義的労働運動推進者――戦前、日本労農党を経て社会大衆党の国会議員として当選10回の古参――であるにもかかわらず、野﨑が知り合ったときはGHQによる公職追放の最中にあった。1940年に大政翼賛会総務に就任して以後、1945年8月15五日までの言動が問われたのである。公職追放解除ののち日本社会党委員長。
 その勧めで立教大学に進んだ。
 1951年の春、立教大学経済学部を卒業し、八幡製鉄の子会社である「北日本砂鉄鉱業」に入社した。この会社は北海道の長万部に鉱業所を持ち、海砂から日産3000トンもの砂鉄を採掘していた。函館本線「国縫(くんぬい)」駅はこの鉱業所のために設けられ、日本海に抜ける瀬棚線の起点でもあった。
 配属先は経理課であった。優秀な経理マンであったと見えて、30歳の若さで部長に昇進した。
 北日本砂鉄鉱業に入社したきっかけについて、野﨑は、「たまたま親父(おやじ)の知り合いが社長をしていたんだ」と言う。
 朝鮮戦争の特需で産業界は賑わっていたが、戦後の失業者を吸収するのが精一杯で新卒者が仕事を見つけるのは決して楽ではなかった。経済学を学んだのなら分かるだろうということで経理部に配属され、ここで見る見るうちに頭角を現わした。入社10年で経理部長になった。
 取引先銀行として毎日のように訪れていた富士銀行数寄屋橋支店の四階に、事務センターがあった。そこには早くからUNIVACの「USSC」が入っていた。1960年のこと、折から「IBM1401」を導入する準備をしているときだった。これがコンピューターと出会うきっかけとなった。自社の経理にもコンピューターを活用できるのではないか、と考えたのだ。
 このとき石﨑純夫も同じ場所に居合わせていたはずだが、野﨑も石﨑も「そういえばそうだったかもしれない」という程度の記憶しかない。野﨑はバッチ処理の窓口と接触していたし、石﨑はUNIBAC機でオンライン・システムの開発に携わっていた。部門が違ったのである。プログラマーとして石﨑の下で働いていた鳥飼將迪が野﨑のことを記憶していた。鳥飼はのち富士銀行システム部長となり、現在はローレルインテリジェントシステムズ会長。
 「計算機に興味を持つお取引先が頻繁に見学に来られました。わたしはその案内係でしてね。その中に、たしかに北日本砂鉄の野﨑さんという方がおられました」
 日本IBMは自社のカスタマーを対象に、講習会を開いていた。野崎は「富士銀行の職員」ということにしてもらって1週間の講座に参加した。調べると、当時、日本IBMが行っていたユーザー向け講習会のうち1週間だったのは管理者向けセミナーである。以後、ことあるごとに時間を作り、2年がかりで技術者向けの講座まで受講し、「IBM1404の論理回路までマスターした」と野﨑はいう。ところが北日本砂鉄鉱業は、計算機の導入を見送ることになってしまった。
 「そこまで自力でマスターしたんだ。口惜しいじゃないか」
 親会社である八幡製鉄の経理部や、富士製鉄の機械計算課の課長たちに相談すると、「パンチの仕事を出してもいい」という話だった。八幡製鉄と富士製鉄は戦前の「日本製鉄」が過度資本集中排除法で分離された関係から、総務・経理部門に共通の知己がいたのである。さらに富士銀行に相談すると、ここもパンチの仕事を出すという。
「それで独立しよう、という腹を固めたんだ」
 と野﨑はいう。
 その足で会社に戻り、社長に本心を告げた。引き止められたが、気持ちはすでに決まっていた。1961年の晩秋のことだった。


     2

 開業したのは1962年の春である。「東京機械計算事務所」を名乗った。公認会計士が個人で事務所を開くのと同じ感覚だった。八幡製鉄、富士製鉄、富士銀行の機械計算課からカードパンチの仕事が発注されることになったが、肝心のパンチマシンがない。
 「パンチマシンは日本IBMかUNIVACしかなかった。まだジューキなんかは作っていなかったから、純正品を使うしかない。ところが日本IBMも日本ユニバックも個人は相手にしてくれない。個人にレンタルするなんていうのは今でこそ可能だけれど、当時はまったく可能性はなかった。そこで知り合いに頼んでね」
 その知り合いというのが誰なのか、野﨑は「有力な自民党の政治家」というだけで名前を明らかにしない。「水田三喜男であった」という説がある。あるいは「野﨑さんから、田中角栄という名前を聞いたことがある」という人もいる。水田とすれば当時の第2次池田内閣の大蔵大臣、田中とすればあえて述べる必要はない。どのような伝手であったのか、河上丈太郎といい、野﨑は幅広い人脈を持っていた。
 マシンばかりでなく、パンチャーも確保しなければならない。
 「丸の内のビル街でチラシを配ったんですよ。丸の内にオフィスがある大企業は、パンチャーを抱えていましたからね。仕事が終わったあと、アルバイトをしませんか、と誘ったわけです。それで何とか凌ぎました。そうこうしているうちに小野田セメントなどを結婚退社したパンチャーが11人そろいましてね、何とか会社らしくなったんです」
 パンチ業が軌道に乗るとみた翌1963年12月、野﨑は東京都港区芝神谷町に「株式会社東京データーセンター(TDC)」を設立した。目と鼻の先、東京タワービルの中に当時の計算センターでは国内最大規模を誇った日本EDPがあり、新橋五丁目の浜ゴムビルにファコム(のちの富士通ファコム、現富士通エフ・アイ・ピーの前身)があり、芝公園に日本能率協会のEDP研究所があった。そこからもカードパンチの仕事が入ってきた。中島朋夫、下條武男、田部雄三などと知り合ったのはこの時期だった。
 日本EDP、ファコム、日本能率協会はともに、受託計算サービスを手がけていた。野﨑はそれにヒントを得て、パンチ業務を縮小して、今度は受託計算サービスを手がけることにした。
 パンチ業務については縮小せざるを得なかった事情があった。元日本IBMの社員でTDCの部長職にあった渋木徹が1964年9月にスピンアウトし「株式会社日本データ・センター」を設立したのである。受託計算サービスに転換しようとしていた矢先だった。
 「ショックがなかったというと嘘になるけれど、売上げの上で会社そのものを揺るがすほどではなかった。その後、渋木さんは独自の努力で会社を立派に発展させましたから、それはそれで結構なことだと思いましたよ」
 野﨑が言うのは、渋木がTDCの顧客を持ったまま独立せず、自力でユーザーを開拓したことを指している。渋木は“フェアな独立”をしたわけだった。
ちなみに1972年度の日本データ・センターの概要は次のようだった。
  【本社所在地】東京都港区新橋2―16―1701。
  【事 業 所】本社、仙台、郡山、三島。
  【営 業 所】日本橋、麹町、市ヶ谷、大手町、品川。
  【資 本 金】3,500万円。
  【従業員数】253人。
  【事業内容】①受託計算10%②ソフト開発20%③ファシリティ・マネージメント10%④パンチ60%。
  【売 上 高】1971年度6億2,000万円。
 この会社は、ややあってパンチャーの腱鞘炎問題で労働争議が勃発した。ほどなく、経営者の渋木徹が急逝するという不幸に遭遇した。それがきっかけとなって事業は縮小をたどり、いっときは解散の瀬戸際まで追い詰められた。だが取引先だった日本EDPが経営支援に乗り出し、会社を存続することができた。現在も東京・高田馬場にある。

     3

 この原稿を書くために筆者が野﨑にインタビューをしたのは、2003年の秋、場所は東京・新宿のTDCソフトウェアエンジニアリング本社だった。
 JR新宿駅南口を出て甲州街道を横切り、明治通り沿いに歩いて7、8分。この会社が移転してきた当時は繁華な東口方面と比べ、ややうらびれた風情があった。今はデパートの高島屋が進出し、りんかい鉄道線や横須賀線、埼京線に直通する新しいホームができ、甲州街道を渡ったところに、改札口が新しくできている。ペデストリアン・デッキ風のコンコースを歩き、エスカレーターで降りればいい。
 十余年で街の景色が一変した。
 その本社に、社主である野﨑のために用意された特別室がある。計算センター業を始める決意を固めるまでの話を聞いて、筆者は訊ねた。
 「そうは言っても、計算機がないじゃありませんか」
 すると、野﨑は例の「ハッ、ハー」という笑い方をして言った。
 「ユーザーの企業に設置されている計算機を使わせてもらったんだよ」
 計算機を持たない計算センターがここに誕生したわけだった。
 銀行や生命保険会社、電力会社などの計算機は、夜間になるとまったく使われていなかった。それを使った。のちに「マシン・タイム販売」は計算センターの重要な収入源の一つだったが、野﨑は計算機を保有している企業にマシン・タイム販売をしてもらって仕事をこなしていった。
 「バロースのB205とか日本電気のNEAC2206とか、空いている計算機なら何でも使いました。こっちは日本IBMの講習で基本ソフトから論理回路まで分かっている。メーカーが違ったって理屈は同じだろう、ってな感じで取り組んだもんさ。リレーのワイヤリングも難しくなかった」
 その気になりさえすれば突破口は見つかるものである。とはいえ、計算機が空いているのは深夜か休日に限られた。まして夜間のビルは出入りができない。計算機室は真夏でも鳥肌が立つほど冷房が効いていた。その冷気のなかで一晩過ごすのだから、夜食だけでは体温が保てなかった。
 「アルコールが強くなったのはそのせいだな」
 今にして野﨑は笑うが、当時は必死だった。運転資金がなかった。パンチマシンのレンタル料とパンチャーの給与、オフィス代などを払うと手元にはわずかしか残らなかった。銀行が相手にしてくれないため、自身の給与を社内留保に回すしかないではないか。
 「最初の3年半は無給だった。でもね、自分の会社のためだと思えば苦労じゃなかった。特に女房には迷惑をかけたな」
 独自の計算機を持ったのは1966年の11月だった。その前年、TDCは神田神保町に本社を移転し、計算機を入れる準備に入っていた。併せてファコムを通じて、富士通からもパンチの仕事が発注されていたことから、野﨑は電子計算機の開発部隊がいる武蔵中原の工場に頻繁に足を運び、富士通の計算機がどんなものかを確かめている。
 「もともとメカ好きなものだからね、川崎工場の人たちの議論に参加させてもらったり、一緒に合宿したこともありました」
 川崎工場には、尾見半左右を筆頭に、小林大祐、青木幹三、池田敏雄、山本卓眞、黒崎房之助、野沢興一、岩井麟三、岡本彬、安福眞民、吉川志郎、稲葉清右衛門、山田博、平野輝雄、石井康雄、井上直敏など、のちの時代から振り返ると錚々たる顔ぶれがそろっていた。その関係からFACOM230―20を導入することにしたのである。
 このとき富士通は「TDCに設置する計算機をデバッグ用に使わせてほしい」と申し出た。
 それは富士通の計算機営業を担った小林大祐が考え出した新しい拡販方式だった。
 計算センターにFACOM機を設置し、それを富士通がFACOM機ユーザー向けに作るアプリケーション・プログラムのデバッグに使う。併せて見込み顧客に見せるデモやテストにも利用する。もちろん導入に当たっては日本電子計算機のレンタル制度を適用できるよう取り計らう。使用した分に応じて富士通が賃貸料を支払うというのである。システムズ・デザインの岡崎司や岡山電子計算センター(のち両備システムズ)の八木富士夫も、その方式に魅力を感じてFACOM機を入れている。
 「当時の金で月額250万円だった。富士通がどんどん使ってくれたので月々のレンタル料は何とかなった。けれどオンラインで計算サービスをやろうとすると、とても投資ができない」
 オンラインシステムの開発は1件当たり2億円、といわれていた。
 「いつ採算が取れるか分からない。こりゃ計算センターはたいへんだぞ、と思った」
 という。
 折から富士通はFACOM230シリーズの上位機「モデル50」の開発に取り組んでいた。中でも基本プログラム「MONITOR」の開発に割り当てるプログラム作成要員が不足していた。TDCに応援の要請がきた。
 「川崎工場にプログラマーを派遣してほしい、というんです。派遣すれば月額いくらで間違いなくお金が入ってくる。富士通の工場で仕事をしながら技術を覚えることができる。そんないい話はないように見えた。けれど、待てよ、と考えた。それなら自社のFACOM230でプログラムを作って富士通に納品すればいいじゃないか」
 それまで富士通がTDCに支払っていたマシン・タイム販売の代金を、プログラム作成費に置き換えて請求できるのではないか。プログラムの代金を人件費で算出せず、マシンの使用時間に換算するのである。
 はじめ富士通は「基本プログラムの開発を外部に委託することはできない」と主張した。前例がなかった。
 これに対して野﨑は言った。
 「基本設計を富士通が行い、当社が作ったプログラムを検収すれば済むことではないか」
 プログラムの受託開発がこうして有償化された。


     4

 同社の記録によると、大型計算機用の基本プログラムの開発を受託したのは、〔本社を中央区新川に移転した1967年9月から〕ということになっている。この時点では「OS」という概念がなく、「システムズソフトウェア」と呼ばれていた。いずれにせよ富士通の資本が一銭も入っていない独立系企業が基本プログラムの作成を受託するというのは例がなかった。
 以後、野﨑は計算センター業務を堅持しつつソフト事業を拡大していった。富士通はFACOM電子計算センター協議会(現在のFCA)に加入するよう勧めたが、野﨑は「当社はソフト会社である」と主張して譲らなかった。
 大型計算機を独自に保有するソフト会社は、日本中どこを探してもなかったはずである。1970年6月に社団法人ソフトウェア産業振興協会が発足すると同時に加盟し、発足2年目の1971年度から理事を務めている。
 のち、野﨑は当時を振り返って、「丸森さんや舟渡さんと、戦前の青年将校になったつもりで動き回った」と述懐している。
 「丸森さん」はソフトウェア・リサーチ・アソシエイツ(現SRA)の丸森隆吾氏、「舟渡さん」は日本コンピューター・システムの舟渡善作氏。
 先回りして記述しておくと、野﨑は1979年度から1982年度まで4年にわたってソフトウェア産業振興協会副会長を務め、1982年2月に日本情報センター協会と共同で「情報処理産業厚生年金基金(現在の全国情報サービス産業厚生年金基金)」を創設するのに尽力した。年金基金が発足した時の加入事業所は157社、加入員1万9,597人だった。ソフト協が単独では成立しないプロジェクトだった。大型計算機を保有しているということが、日本情報センター協会との橋渡し役として適任だった。
 東京データーセンターは1987年に社名を「ティーディーシー」に、さらに1986年「TDCソフトウェアエンジニアリング」に変更し、1997年株式を公開、2001年東京証券取引所2部、2002年東証1部に上場している。1992年藍綬褒章、1994年会長、2000年相談役。
 本書の取材で面白い発見があった。
 古い資料に自ら「正晃」と署名した文書があった。調べると、1970年までは本名の「克己」、1971年から1986年まで「正晃」で通し、1987年から再び「克己」に戻している。「正晃」を名乗ったのは、「当社はソフト会社である」ということを内外に示して以後であって、社名を「ティーディーシー」に変えるまでの時期と一致している。名乗りを改めた事情を本人は詳しく語らないが、想像するに心機一転、別人になったつもりで改めて社業に専念しようと決意したのではあるまいか。
 さらにいえば、それは事業の高度化ないし付加価値化を追求した時期であった。会社設立から10年を経た1972年の従業員数は150人、売上高は5億円強だった。その10年後の1982年の従業員数は倍の300人、売上高は22億円、再度の社名変更を行った1986年は360人で30億円である。「ソフトのウエイトを高め、単品の受託開発からシステム構築を一貫して受託できる体制への転換を図った時期だった」と野﨑は語っている。

    5

 2004年の5月31日は、前の日と打って変わってひどく蒸し暑かった。
 2週間ほど前、自宅に宛てて、白封筒に入った知らせが届いていた。
  東京・日比谷の帝国ホテル。
  午前11時半。
  孔雀の間。
 その日、朝からどうしてもキャンセルできない役所の用事があった。歩けば10分の距離をタクシーに乗ったのは、気が急いていたためだった。頭の中で時計を逆算し、会場に飛び込んだのは刻限の5分前である。途中、エスカレーターで日本電子計算会長の田中治彦氏と一緒だった。
 ――急でしたね。
 ――少し体調を崩された、とは聞いていたんだが。
 というような短い会話をした。
 取り急ぎ受付けを済ませ、深呼吸をして息を整えた。
 会場には白布をかけた椅子が並び、後方に数列の空席があるばかりだった。ざっと見渡したところ、参集者は300人ほどだったろうか。それほどの人が着席していたにもかかわらず、会場は静まり返り、たまにしわぶきの咳が聞こえる程度である。
 正面に菊の花に包まれた祭壇が設けられ、よく見知った日焼けした顔が、新宿の高層ビル群をバックにしてにこやかに笑っている。
 野﨑克己――TDCソフトウェアエンジニアリング株式会社創業者。
 あと半年で76歳になるはずだった。4月28日、脳溢血のため死去。葬儀は親族と関係者で行われ、同社会長である船井一美氏を委員長に、業界関係者向けの「お別れの会」が企画された。
 受付けで渡された小冊子には、次のようにあった。
 生年月日 昭和3年11月1日
 経 歴  
 ・昭和26年3月 立教大学経済学部経営学科卒業。
 ・昭和38年2月 東京都港区神谷町で株式会社東京データーセンター(現:TDCソフトウェアエンジニアリング株式会社)を設立 代表取締役に就任。
 平成18年6月~12年6月 取締役会長。
 平成12年6月~ 相談役・社主。
業界活動
 ・昭和46年5月~昭和58年5月 社団法人ソフトウェア産業振興協会の理事、常任理事、副会長、会長代行を務め、その間――
 ・昭和48年10月 通商産業省産業構造審議会 情報化保険制度委員会委員
 ・昭和52年16月 協同システム開発株式会社 取締役
 ・昭和56年10月 中小企業庁中小企業近代化審議会指導部会情報化分科会委員
  情報サービス産業従事者の福祉の向上、雇用の安定に取組み「健康保険組合」、「厚生年金制度」の設立に挺身
 ・昭和57年12月 情報処理産業厚生年金基金発足と同時に理事に就任
 ・昭和63年12月 同基金の理事長を務める
 ・昭和61年12月 財団法人ソフトウェア情報センター設立へ貢献
 ・平成13年15月 社団法人情報サービス産業協会 常任理事
 ・平成12年 現役を引退すると同時に全ての公職を辞任
   (自ら定めた定年制に沿って、潔く後進に道を譲った)
賞 罰
  昭和55年11月 通商産業大臣表彰(情報化促進への貢献)
  平成元年 藍綬褒章受章(長年にわたる業界発展への功績)


     6

 「故野﨑克己お別れの会」は粛々と進められていった。
 かつて通産省の情報処理振興課長として野﨑氏らソフト業界の代表者と丁々発止で渡りあった吉田文毅氏、情報処理産業厚生年金基金の創設をはじめ業界活動で二人三脚の相方であった丸森隆吾氏、情報システム安全対策コンサルタントの北村亘氏(ビック情報機器創業者)がそれぞれに送る言葉を語り、現社長の河合輝欣氏が御礼の言葉を述べた。
 参列者が祭壇に花を献じた。ホテルの係りの案内で、列ごとに起立していく。座っていたのは後ろの方だったので、立ち上がった中に見知った顔がちらほらと見えた。この種の会式に参列するのは初めてだったので、どういう感想を抱いていいのかさえ分からなかった。
 自分の番がきた。白いカーネーションを献じながら、
 ――教えてもらいたいことが、まだ山ほどあったのに。
 と思った。次のインタビューは6月か7月のはずだった。
 別の会場で軽食が供された。
 一画に、元気だったころに写した野﨑氏のスナップが飾られていた。
 釣りが好きだった。
 酒とタバコだけは、周りが何と言おうと止めなかった。
 奥さんを亡くしたあと、四国遍路を重ねていた。
 3度目の旅を思いついたとき、ふとしたことで足を痛めた。それでも杖を頼りに行った。すべての公職から身を引いたのはそのときだった。
 上機嫌なときは、「ハッ、ハー」という笑い方をした。
 最後の取材――本書のためのインタビュー――を終えて、一緒に部屋を出た。エレベータの中で、あと2、3回、話を聞かせてほしい、ということを伝えた。
 「いいよ、もちろん」
 表に出ると、「じゃ、また」と言って、改めて背筋を伸ばしたように見えた。
 濃紺のスーツに合わせた中折れ帽が似合っていた。足を悪くしてから持つようになったステッキが、なかなかお洒落だった。
 その後姿が、まだ脳裏に残っている。
 東京システム技研の北小路矗氏がいた。体が一回り小さくなって見えた。
 ――たまにメールでも下さい。
 と言って、名刺の裏にメールアドレスを書いてくれた。
 アイエックス・ナレッジの安藤多喜夫氏がいた。相変わらずダンディだった。
 元サイコムの加毛秀昭氏がいた。
 ――いまは熱海の伊豆山でのんびり暮らしている。遊びにおいで。
 と誘ってくれた。
 日本データ・エントリ協会会長の川口重信氏がいた。電算の河野健比古氏と一緒だった。
 佐藤雄二朗氏がいた。情報サービス産業協会会長という重責にあって、愚痴を吐き出すこともままならない。誰かがその部分を引き受けなければならない。
 日本アウトソースの蓮生重剛氏がいた。
 ――書きためてきた原稿を本にして出すつもりだ。
 と話していた。
 キーウェアソリューションの岡田昌之氏がいた。
 ――会長に就任したんだが、海外事業の責任者でね。近く海外に飛ぶんだ。
 と意気軒昂そのものだった。
 SRAの丸森隆吾氏が原稿認めた送る言葉を述べた後、じっと野﨑氏の写真を見上げていたのが印象的だった。形式で済ますわけにはいかない、という強い気持ちが伝わってきた。
 ややあって、
 ――野﨑さん、ありがとうございました。
 深々と頭を下げた一言が、丸森氏の心から出た送る言葉だった。
 ――同窓会みたいだな。
 誰かが言った。
 式が終わったあと廊下を歩いていると、専務の藤井吉文氏(のち同社社長、会長、相談役)が駆け寄ってきて
 ――具合がよくなった。そう言って、たった一日だけ、久しぶりに会社に来られたんです。そのとき原稿に目を通しましてね。うまいもんだ、とたいへん喜んでおられました。
 倒れたのは翌日だった。
 ――そのときはもう意識がありませんでね。
 最期まで潔かった。
 原稿というのは、東京データーセンター創業当時のエピソードである。喜んでもらえたと聞いて、救われた感じがした。
 四国遍路の旅の中で、野﨑氏も蝉時雨に足を停めたことがあったに違いない。
              

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