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金岡幸二氏 インテック創業者




 東京生まれ。旧姓「石坂」。1923年9月20日~1993年9月2日。東京帝国大学在学中に陸軍に徴兵され、満州・奉天航空基地に飛行生として配属された。1945年8月、特攻の命令を受けたが終戦となり、復員して再度、東京大学に入った。1949年東大工学部を卒業し東光電気、大学講師などを経て1964年「㈱富山計算センター」を設立し専務。1970年「インテック」に社名変更と同時に代表取締役社長。富山県教育委員会委員長、富山女子短期大学理事長、ちゅーりっぷテレビ社長などを兼務した。1970年社団法人日本情報センター協会の設立に尽力し、1973年通産省産業構造審議会情報産業部会委員、1982年郵政省電気通信審議会委員、1987年社団法人特別第二種電気通信事業者協会会長などを歴任した。コンピューターとネットワークの融合による総合サービスの重要性に早くから着目し、通信回線の自由化と日本電信電話公社の民営化に貢献した。


 1

 東京帝国大学在学中の1945年春、学徒動員で陸軍に召集された。終戦のときは満州・奉天の日本陸軍航空部隊に飛行学生として配属されていた。そのときの同僚に、のち富士通社長・会長となる山本卓眞がいる。
 1945年8月8日、ソビエト連邦が対日宣戦布告を行い、兵160万・火砲2万6000門・戦車5600台をもって極東軍が満州に侵攻したとき、特別攻撃を命令され死を覚悟した。8月15日、日本のポツダム宣言を無条件受諾したことを無電で知った直属の司令官が金岡と山本に、「本土に戻って、新しい日本の建設に邁進せよ。これは命令である」と告げた。
このとき奉天飛行場には、陸軍の最新鋭機「烈風」が2機残っていた。2人はその烈風に乗って奉天を後にした。残された奉天飛行隊はのちソ連軍に降伏し、シベリアに抑留されることとなる。戦後から1990年代までの金岡と山本の活動は、このときの贖罪の気持ちが強く作用している。

 広く知られているのは、富山の人であるということだが、そもそもの姓は金岡ではない。祖父は富山市長、衆院議員、参院議員などを務めた石坂豊一、父親は滑川市の出身で最高裁判所の判事を務めた石坂修一。石坂家はむろん名家だが、長男・誠一が家を継いだ。誠一はのち通商産業省工業技術院院長となった。
 幸二は金岡又左衛門の長女・千鶴子を妻に迎えるに当たって、金岡家を継いだ――ということが、「越中人譚」第28号〔進取〕(小沢昭巳、チューリップテレビ)に載っている。
 その地で「金岡家」といえば、よほどの力を持っている。
 江戸の末期、薬種問屋「金岡薬店」を営んでいた金剛寺屋又右衛門の長子・又左衛門が分家し、もって「金岡薬店」の初代とする。初代は1899年に「富山電燈」、1913年に「富山軌道株式会社」を興し、県議会議長、衆議院議員。
 二代目・又左衛門は「第一薬品株式会社」「富山合同無尽株式会社」を設立し、貴族院議員。三代目・又左衛門は「テイカ製薬株式会社」「富山女子短期大学」「富山育英会」を創設した。義父の又左衛門が四代目に当たる。つまり石坂改め金岡幸二は金岡薬店の五代目当主となるべき存在であった。
 余談だが、富山市には戦前、およそ30の薬種問屋があった。いずれもたいそうな構えの屋敷であったそうだが、1945年8月の空襲で金岡薬店のみを残して焼亡した。その建屋は1981年に県に寄贈され、県民会館分館「金岡邸」となり、98年、国の登録有形文化財となった。


     2

 復員して東大に入り直し、1949年に工学部を卒業して東光電気に入社した金岡は、ここで川上睦水(のち塩尻市観光協会会長)と懇意になった。川上は金岡の4歳年上で、東大工学部総合研究所に所属しながら、嘱託として東光電気に出入りしていた。
 当時のことを松本市の雑誌社が発行した雑誌に川上が書き記している。

 東光電気では給料の遅配が続いた。不景気の風に対抗するためにいろいろな処置を取ったようだったが、簡単には回復しなかった。しかし、そうは言っても従業員は生活のために闘わねばならず、とうとうストライキに突入。(中略)組合運動をしている中で、私は素晴らしい友人にも出会った。その一人が金岡幸二氏。富山県出身で東大の計測工学科を卒業して東光電気に入社、私より四歳くらい若かった。同志として会社側と闘った。会社側の意向で人員整理が始まると、私が一番に名前が上がったが、金岡氏の名前はなかった。しかし、私と同じ時期に会社をやめて郷里に帰った。

 川上は東大に戻って金属組成の研究を続け、東北大学助教授の口がかかったとき、長野県塩尻にある妻の実家が破産寸前に追い込まれた。1952年、やむを得ず塩尻に戻り、その家業を継いで「株式会社カワカミ」を起こし、のちには松本調理師専門学校を創設している。カワカミは名物駅弁「岩魚ずし」の本家であって、現在も塩尻駅で売られている。
 富山に戻った金岡は北陸製塩に入った。大日本精糖、日本鋼管、北陸電力などが、海水から食塩やマグネシアクリンカー、臭素などを抽出しようという壮大な計画のために共同で設立した技術開発会社である。ここで企画部長になった。

 やや遅れて、同様に挫折感を抱いて富山市に戻った青年がある。その青年の名は中尾哲雄といった。のちに金岡のあとを受けてインテックの社長となる。
 中尾は高校三年生のとき結核に罹ったが、病いを隠して上京し、大学進学を志した。ところが下宿生活の栄養不足がたたって喀血し、故郷に戻らざるを得なかった。療養しつつ富山大学経済学部に通い、1960年に日興証券に入社した。
 「ストレプトマイシンという特効薬が効いた」
 と中尾は言う。
 証券会社の仕事を通じて金岡と知り合い、あるいは不二越の井村荒喜と懇意になった。その井村の紹介で富山商工会議所に入ったのは1965年春のことだった。
このとき、商工会議所では
 ――当地にも計算センターをつくろうではないか。
 という話が持ち上がっていた。薬種の取扱い品目が多品種にわたり、事業者は中小零細でありながら「富山の置き薬」は全国に広がっていた。この計算業務だけで膨大な人手を必要とし、従来の大福帳による販売管理では大阪の製薬メーカーに圧倒されてしまう。
 地元の有力企業も出資するというところまで話がまとまり、社長を選ぶ段になって金岡が大きく浮上した。東大出である。かつ、「金岡家」の次期当主ではないか。
 だが、北陸製塩の企画部長からいきなり社長というのは性急に過ぎた。そこで地元経済界を代表するかたちで加越能鉄道社長、高岡文化ホテル社長を兼務し、元北陸電力副社長である西泰蔵が社長に推され、金岡が代表権を持つ専務ということになった。
 金岡は、実兄が通産省の工業技術院に勤めていたことや、奉天航空隊で同期だった山本卓眞が富士通信機製造で電子計算機の開発に従事していたことに刺激を受けていた。さらにいえば、地元経済への貢献を是とする家風があった。


     3

 機種の選定を任された金岡は、国産、外国製の主要な計算機をつぶさに調査し、技術的にUNIVAC機が最も進んでいるという結論を出した。この時点では正しい選択であった。
 1964年1月11日、富山相互銀行、富山地方鉄道を中核に、資本金1000万円で「株式会社富山計算センター」が設立された。本社は富山市入船町31番地に置き、北日本放送局の旧送信所(鉄筋平屋約180平方メートルと木造平屋約17平方メートル)を間借りし、3月10日にUNIVACのパンチカード・システムが設置された。
 県経済界をあげての新会社であったため、役員には錚々たる顔ぶれが名を連ねたが、従業員は17人しかいなかった。この中に岩田三郎(のち計算部長、東京事務所長)、松野勲(のち大阪センター所長)などがいた。
 営業、打ち合せ、パンチカードの納品、採用などは金岡がすべて一人でやった。商工会の会員としてセンターの設立には参加したものの、自社の計算業務はソロバンで十分という経営者が少なくなかった。財布の中身を知られるのが嫌だという感覚が強かったため、日本海瓦斯、細川機業、富山地方鉄道など地元企業からの受託計算から始まった。富山市など地方公共団体、北陸電力などに事業が拡大するのはのちの話である。
 「最初はカツカツだった。社員の給料を払うと何も残らない。毎日、仕事を探して県内を飛び回った」
 難物は雪だった。
 富山市内は日本海に近いのでそれほどでもないが、高岡、礪波などは雪が深い。現今のように高速道路はなく、国道といえども消雪施設は完備していない。山越えの道は路面が凍結し、チェーンをつけていても車輪が空回りした。
吹雪にあって立ち往生したこともあった。
 「雪の道と悪戦苦闘しながら、納品したものでした。一度、カチンカチンに凍った雪に足を滑らせてね。持っていたパンチカードが一面に散らばってしまった。
かき集めはしたものの、使い物にならない。
 ――社員が苦労して打ち上げたのに……。
 と思うと、口惜しくてね、涙が出た。
 雪に濡れたカードを見せて頭を下げ、もう一度、全部打ち直したこともあった」
 そんなことを、金岡はよく語っていた。


    4

 創業期における同社の転機は二つある。
 一つは1966年1月、日本通運の新潟支店から電子計算機の運用まわりを依頼されたことだった。日本レミントン・ユニバックは日通新潟支社にUNIVAC1004モデル―Ⅱを納めたものの、「システム・サポートは当社の領域ではない」として富山計算センターに再発注したのである。同社にとって初めての県外営業所の設置となった。これがきっかけとなって、金岡はプログラム開発と計算処理の受託、さらに運用までを一貫するサービスの可能性に気がついた。
 第二の転機は翌67年である。三菱電機の富山商品営業所との取引きが始まった。これは三菱系列で地元の富山交易から売掛管理業務を受託したのがきっかけとなった。営業所の受注・販売管理業務を受託し、そのサービスの品質が好評だった。
きっかけが、新しいきっかけを生む。
 折から三菱電機の本社でも商品管理の電算機処理を本社による集中処理に転換する作業が進んでいた。システムの変更とオーバーフローの問題から、富山商品営業所が高く評価している富山計算センターに全面的に委託する話がまとまった。
 東京都世田谷区池尻にあった三菱世田谷ビル内に東京事務所が開設されたが、このことは計算センター業界にとって“事件”以外の何ものでもなかった。天下の三菱電機が、名も知れぬ地方の計算センターに業務を委託する、というのである。
 ――東京事務所の開所式は六八年二月三日午前十一時から、恵まれた天候の下で関係者約二百人を集めて盛大に行われた。
 と同社の広報誌「広報計算センター」2月20日付号は記している。
 続いて同年、名古屋、1970年に仙台、大阪と全国展開がスタートした。
 この間、富山センターの計算機をUNIVAC120からUSSCにレベルアップしたが、パンチカード・システムからストアド・プログラム・システムへの転換がうまく行かなかった。日本能率協会に勤めていた下條武男と知り合ったのはこのときである。
 「エクスターナル・プログラミングとカードの運用から、インターナル・プログラミングと磁気テープの運用への転換というのは、それこそシステムの概念がまるっきり違う。社員は手探りでバタバタやっているし、計算機はうまく動いてくれない。そこで下條さんにコンサルティングをしてもらった」
という。
 「スムーズな運用ができるようになるまで、2年か3年かかったのではなかったか」
 要員の養成に時間がかかったのである。
 1967年に下條が独立して「日本コンピュータ・ダイナミクス」というシステム設計とプログラム作成の専門会社を東京・恵比寿に設立したとき、金岡は諸手をあげて賛成し、資本金100万円のうち20万円を出している。
 後年、下條は
 「系列化してやろうとか、うまく儲けてやろうというような、俗っぽい欲がまったくない、純粋な人でした」
 と語っている。
 このあたり、裕福な家に生まれた者に特有な屈託のなさというべきかもしれない。


    5

 地元経済界に支えられ、さらに三菱電機という強力な顧客を得た富山計算センターは、順調に事業を拡大していった。
 1972年度における同社の状況は次のようであった。

【本社所在地】富山市桜橋通り1―18(富山本社)。
       東京都港区芝西久保明舟町12―1(東京本社)。
【計算センター】札幌、仙台、新潟、富山、高岡、東京、名古屋、大阪。
【資 本 金】1億5000万円。
【従業員数】547人。
【売上高】17億円。
【業務内容】①受託計算②データ入力③ソフト開発④要員派遣。
【使用機械】UNIVAC USSC、MELCOM7700、FACOM230―25、MELCOM3100―10T。

 従業員の数で比較すると、同じ時期、計算センターの最大手は日立製作所系列の日本ビジネスコンサルタント(のち日立情報システムズ)が1,400人だった。これに次ぐのは富士通系列の富士通ファコム(のち富士通エフ・アイ・ピー)が1,000人、日本証券金融系列の日本電子計算の900人であって、それに続いて東京・大阪など大都市圏にある計算センターが三番手グループを形成していた。すなわち、協栄生命系列の協栄計算センター(のちアイネス)が400人、伊藤忠商事系列のセンチュリ リサーチ センタ(のちCRCソリューションズ)が480人、住友銀行系列の日本情報サービスが420人、三和銀行系列の東洋コンピュータサービス(のちTIS)が450人、独立系の日本計算センター(のちサイコム)が400人である。という状況の中で従業員547人というのは全国第4位の規模ということになる。
 気がついたとき、いつの間にか富山計算センターは全国で第4位、独立系であり、かつ地方都市に本社を置く企業ではトップに位置していた。
 ――地方計算センターの希望の星。
 重責が、金岡の肩にかかってきた。
 富山計算センターは創業から数年で計算センターの“大手”に数えられるまでに成長した。独立系かつ地方に本社を置く計算センターにとって“希望の星”になった。だけでなく、金岡は計算センター業の情報交換の場も作った。1967年に発足した任意団体「日本計算センター協会」がそれだ。
 日本計算センター協会発足時の参加企業は次の32社であった。

日本計算センター、青山電算、いすゞ協和会経営合理化センター、日本コンピュータ・ダイナミクス、日本ビジネスコンサルタント、東京計算センター、富山計算センター、中央計算センター、中経計算センター、横浜電子計算センター、長野電子計算センター、能研電子計算センター、熊本電子計算センター、郡南計算センター、群馬電子計算センター、山梨電子計算センター、コンピュータシステム、データー・プロセスコンサルタント、札幌電子計算センター、協栄計算センター、岐阜電子計算センター、宮崎電子計算センター、昭和計算センター、商工計算センター、社会調査研究所、四国電子計算センター、広島計算センター、東日本計算センター、姫路電子計算センター、ビー・シー・シー、備後電子計算センター、セントラル電子計算センター。

 事務局は東京都世田谷区池尻3―10―3三菱世田谷ビル内の富山計算センター東京事務所に設置されていた。
 こののち、大阪電子計算、関西コンピュートセンター、県南電子計算センター、システム開発、システム・サービス、高崎共同計算センター、中央電算研究所、中部産業計算センター、都築ファコムセンター、東京実業計算センター、東北経営計算センター、東洋ソフト・ウェアー、東洋コンピュータ・サービス、名古屋会計計算センター、日本科学技術研修所電子計算機センター、日本経営情報研究所、日本計算器販売、三菱大阪商品計算センター、万代コンピュート・コンサルト、ビジネス・コンサルティング・センター、山形電子計算センター、日本電子計算機専門学校、東京芝浦電気、日本ユニバック、三菱電機、日本電気が加わって、大所帯になった。
 すでに日立系のHITAC計算センター・ネットワーク協議会、富士通系のFACOM電子計算センター協議会が発足していて、日本IBMはユーザー会の一部として計算センターの集まりを設けていた。残るのはUNIVAC系かNEAC系、もしくは特定メーカーにこだわらないソフト会社やパンチ会社だった。金岡はその代表に座ったが、他のメーカー系団体と違ったのは「将来は社団法人化をねらう」と明言したことだった。
 「受託計算サービスを業としている会社が集って共通の課題を協議すべきだと考えた。ふたを開けたらUNIVACのコンピューターを使っているセンターばかりになってしまった。これにはちょっとまいったね」
 情報サービス産業協会が発足した1984年の秋、金岡は回想しつつ苦笑して話していた。
 なるほどUNIVAC機を使っている計算センターが8割以上だったが、「独立系」であることに意義を見つけていた金岡は、日本ユニバックに依存しない独自の事務局を設け、毎月、会員の持ち回りで例会を開いた。1968年7月には「米国コンピュータ・サービス産業調査団」を編成して、MIS(Management Information System)の実態調査を行ったりした。また日本ユニバックの営業を統括していた井上敏をたびたび会合に招いて、メーカーとサービス会社の関係はどうあるべきかを論議した。
 「メーカーと対立するとか対決するとかいうのではなく、サービス業はメーカーの下請けであってはならない、という考えがあった」
 と金岡はのちに語っている。


     6

 「サービス業が業として確立していかなければならない。そう考えると、一般のコンピューター・ユーザーと一緒に、特定メーカーのユーザー会の中でサービス業固有の問題を論議してもどうにもならない」
 サービス業固有の問題というのは、料金設定だった。受託計算の対価をどう見積るか、カードパンチ、マシン・タイム販売の料金はどうか、オペレーター派遣料の算定基準はいかにあるべきか。さらには、オンライン・サービスにおける通信回線の利用規制問題が大きな課題だった。
 この問題はTSS(Time Shering Service)で手痛い挫折を味わった日本計算サービスの加毛秀昭や、親会社の業務を代行するかたちで規制の壁にぶつかった野村電子計算センター(のち野村総合研究所)の大野達男などの共感を得た。アメリカでは受託計算サービスがオンライン・サービスに転換しつつあったが、日本では電電公社の存在が障壁となっていたのである。
 当時のことを回想して、のち金岡幸二の急逝を受けて社長に就任した中尾哲雄が次のように言う。

 東京に支社をつくったころ、わたしは富山商工会議所の課長で、県内の事業者からの事務  機械化や合理化の相談に乗る立場でした。コンピューターの利用を勧め、「富山計算センターというのがあるから、そこに仕事を任せればいい」というようなアドバイスをしていました。
 そのころ金岡さんは社名を変えることを真剣に考えるようになっていました。商工会議所のわたしのところにやってきて、「何かいい名前はないだろうか」というのです。これから全国に事業を展開する。いつまでも「富山」では不都合ではないか。社名からこの二文字を外したい、というんです。
 金岡さんはすでに腹案を持っていました。
 「IT」「IC」だというのです。
 「何ですか、それは?」と尋ねると、
 「ITというはインフォメーション・テクノロジー、ICはインターナショナル・コンピュテーションのことだよ」
 という答えでした。
 さすがに東大出は違うな、と思いましたね。
 どうしたものだろう、と言いながら、それとなくわたしに地元の出資企業への根回しを依頼したかったのでしょう。金岡さんは代表取締役専務だし、経営基盤を固めた実績の持ち主でもあるけれど、富山計算センターは金岡薬店の子会社じゃない。地域の共同センターという役割を担っていました。だから、社名から「富山」の名前を外すには、いまふうにいえばコンセンサスが必要でした。
 「斬新だとは思いますが、横文字を地元が受け入れますかね」と答えた記憶があります。でも金岡さんはその年の役員会で本当に社名変更の議案を持ち出し、「これからはインターナショナルな時代である。かつインフォメーションの時代でもある。富山の名にこだわるべきではない」と打上げた。
 これは否決されました。出資者たちはその意味を理解できなかった。それに英語風のカタカナの社名はソニーとかカルピス食品、サントリー、ブリヂストンとかはあったけれど、新しすぎるというか、何となく軽薄に受け取られたのでしょう。
 しかし金岡さんはあきらめなかった。このころすでに、全国オンライン網の構築が視野に入っていたのだと思います。それとソフトの重要性に気がついていたんですね。「ソフトとは何であるか。コーディングされたプログラムではなく、知識の集約そのものである」ということを、しきりに強調していました。
 金岡さんという人は、大学の専攻は工学ですけれど、一方で非常に文学的な思考回路も持っている人でした。これはもうちょっとあと、わたしが一緒に仕事をするようになってからのことですが、「仕事の話はこれくらいにして、哲学のことを話そうじゃないか」と切り出されたことが何回もありました。会社の経営というものを金勘定だけじゃなく、理念というか哲学に高めていったのは、この時期ではなかったかと思います。

 1970年10月、大阪に支社を出したのとタイミングを合せ、金岡は社名を「インテック」に改めた。かねてから主張していた企業コンセプトがあった。
 「Information-Technology」と「International-Computation」である。この二つに、「Integrated Technology(統合化技術)」「Intellectual-Echelon(知的集団)」の意味が新たに加えられた。おそらく「IT」を社名に盛り込んだ最初の会社であった。
 以後、金岡は1970年2月に通産省の肝いりで社団法人・日本情報センター協会が発足するに当たって、コトの成否を左右する役割を負う。さらにのち電気通信事業の自由化をめぐっては、早期の自由化に向けて精力的に動き、ついに1985年4月の電気通信事業法施行を実現した。


    付記

 やや鼻にかかった、ときに甲高い声音の持ち主だったが、温厚で人当たりのいい話し方をした。一事を成した人に共通することだが、この人も笑顔がよかった。最後に会ったのは亡くなった年の1月、東京・大手町の経団連会館かどこかで開かれたインテック東京本社主宰の新年会だったと記憶している。
 バブル経済の破綻が、ソフト/サービス業界に深刻な影響を与えつつあった。金融機関をはじめ鉄鋼、自動車、電機など大手企業が軒並み新規のシステム開発を手控え、進行中のプロジェクトでさえ中断して景気の成行き――どこまで悪くなるか――を見守っているときだった。
 懇談会の最初の挨拶で、金岡はそのことに触れ、
 ――ネットワーク・サービスの分野への影響は軽微ではないか。
 という見通しを話した。その理由は次のようなものだった。
 景気が悪くなれば、その分、ネットワークの利用は増える。例えば出張費を圧縮する代わりに、情報通信を活用するようになる。物流の伝票処理などは、電子データ交換、すなわちEDIが主流になるであろう。全国規模の基本VANサービスを追求してきた当社の出番である。
 しかも情報通信サービスは企業ばかりでなく、社会全体、さらに家庭や個人にまで浸透し、付加価値の高い様々なサービスが次から次に登場する。個人向けに提供されているパソコン通信も、そのうちに音声や画像が追加されるだろう。ここでも当社の技術が生きる。
 さらに中長期的な展望でいえば、コスト削減を求める企業ユーザーが情報システムのアウトソーシングに踏み切るようになるであろう。全国にセンターを持ち、基幹ネットワークを独自に構築している当社にとって有利な条件がそろう。また製造業や金融業の大手に独占されてきた優秀な人材が、わが業界にも回ってくる。これも有利な条件として作用する。
 聞きながら、
 ――珍しく強気だ。
 と思った。というより、ムキになっているのではないか。1一部上場の情報サービス会社――当時、東証1部に上場していた情報サービス会社は数えるばかりしかなかった――として、記者の前で弱気な発言をすれば業界全体にマイナスのイメージを与えてしまう、ということを考えたのではないか。
 乾杯のあと、懇談になった。ワッと集まった記者たちの輪がほどけ、ふと金岡が一人になったのを見て挨拶に行った。
 「ちょっと投資が大きすぎましたね」
 すると金岡は顔を寄せ、同じように小声で、
 「ちょっと、ね」
 と言った。そのとき、あごに剃り残しが見えた。だから何だ、ということもないのだが、そのことが妙に記憶に残った。
 投資、と言ったのは、その前の年(1992年)、基幹ネットワークの再構築に総額百億円を投入すると発表したことを指していた。加えて、富山市に新本社ビルを建設中だった。売上高が600億円ほどだったインテックには、やや荷が重い投資ではなかったか。
 
 同氏は偶然、筆者と誕生日が同じだった。そういうこともあって、何かと好意的に扱ってくれたように思う。日本情報センター協会、情報サービス産業協会の会長選任のときになると、必ず候補にあがったが、郵政省と通産省との綱引きが邪魔をして、遂に業界トップに立つことがなかった。この人の急逝を知ったとき、「IT業界はどうなってしまうんだろう」と、しばし呆然としたことを覚えている。


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金岡幸二氏と山本卓眞氏との関係興味深く拝見しました。
疑問があります。当時制式化されていず、写真も残っていない、「烈風」が奉天にあったのでしょうか?疾風ではないでしょうか?
以上です
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