忍者ブログ

[PR]

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

安藤多喜夫氏 アイエックス・ナレッジ(データ・プロセスコンサルタント)創業者

     1

 安藤多喜夫氏と会った日は、夏を思わせる強い日差しが照りつけていた。
 同氏が「株式会社データー・プロセスコンサルタント(DPC)」を創業したのは、1964年の8月である。戸谷深造氏が通産省の電子工業課長に就任したのと時を同じくしている。東京オリンピックの開幕を前に、東海道新幹線が開通し、首都高速道路が建設されるなど、日本経済は活況に満ちていた。
 同社は当初、東京・新橋に本社を構え、72年に芝に移転、次いで銀座9丁目の共同ビルに本拠を定めた。共同ビルの時代は1999年まで続いている。その間、社名を「アイエック」に変更し、株式を東京証券業協会店頭に登録した。次いで日本ナレッジインダストリ(NKI)と合併して社名を「アイエックス・ナレッジ」に変更し、社長の座を春日正好氏に譲った。東京証券取引所2部への上場を果たし、相談役。現在は創業者・社主として子息・文男氏の経営ぶりを眺めている。
 設立から8年後、1972年時点の記録によると、資本金は4,000万円、組織は「社長の下にシステム開発研究会、運営会議、営業会議を置き、その下に総務部、運用管理部、技術部、コンサルタント部、営業部」とある。主要業務は「プログラム作成」「運用管理」「パンチ業務」で、ソフト開発が全体の52%を占めていた。従業員は261名である。またコンピュータ専門紙「日本情報産業新聞」1987年9月28日付の記事によると、
 社員数1200人の業界大手、受託計算とシステム運用受託を中心に、ソフト開発・販売、技術教育など事業の多角化を図り、VANサービスでセコムネットと提携、海外進出も果たす。
 とある。72年に260人だった社員数が15年後に5倍に増えている。
 ――日本にも本格的なアウトソーシング・サービスを根付かせたい。
 を常に目標として掲げていた。電算室の運営を一手に引き受けるサービスは、日本では「ファシリティ・マネージメント」略して「FM」と呼ばれていた。その言葉には、
 ――プログラム作成よりレベルの低い仕事。
 というニュアンスがあった。同氏は「アウトソーシング」という言葉で、高度なサービスへのイメージ・チェンジを図ろうとしていたのだ。実をいうと、筆者はこの言葉を初めて安藤氏から聞いた。しばらくして他の会社で同じ言葉を聞いたとき、
 ――そうですよね。
 と相槌を打つことができた。ただし、そのときはEDSという会社のことまで知らなかった。
 EDSとは、すなわちエレクトリック・データ・システムズ社のことで、ロス・ペローという人物が設立した。1992年と96年の2回、私費を投じてアメリカ大統領選挙に打って出た人物、といえば少しは分かりがいい。ちなみにいうと、「EDS」というアメリカの会社の名前が国内で広く取りざたされるようになったのは、1990年代に入ってからだった。新しい情報処理サービスの形態として「アウトソーシング」「コ・ソーシング」が脚光を浴び、その先駆をなした企業としてマスコミが一斉に取り上げた。氏にしてみれば、
 ――何をいまさら。
 というのが正直なところだったのではなかったか。
 久しぶりに会った「アンタキさん」は、ダンディさは依然健在だった。頭の回転も舌の滑らかさも、少しも落ちていない。実際、この人の口から次から次に繰り出される話題に付いて行ける人は、よほどの理解力の保有者といわなければならない。おまけにこの人は早口で、あれこれ細かく説明するのが面倒な性質なのだった。当初予定していた一時間という時間はあっという間に過ぎた。
以下、同氏の回想。


   2

 1956年というと、わたしが在日米軍の補給廠でIBMのPCS(Panch Card System)と格闘していたときだね。
 当時は労働組合が活発でしてね、労働協約の遵守とか、就労環境の改善、賃上げとかでしょっちゅう職員のストライキがありました。米軍の待遇は、他の民間企業よりずっとよかったんだけれど、それでもストライキがあってね、管理職だった自分らがPCSの仕事を肩代わりしました。
 私なんか、何も知らないでアルバイトからそのまま職員になっちゃったから、就労条件がどうのこうの、残業がどうのというより、仕事が先、という感覚でしたね。それより、久しぶりに現場の仕事ができる、っていうんで楽しかった。
 真空管式の電子計算機は登場していたけれど、なんといっても主流はパンチカード・システム、つまりPCSでしたよ。計算処理を全部パンチカードでやる。カードはIBM方式でしたから、カラムは80桁でした。それのパンチも自分たちでやる。ソーターにかけて、機械に読み取らせるのも自分、プリントアウトをするのも自分。ぜんぶ一人でやりました。そういう時代です。
 集計も「サマリーカード」というのに出力されてね、それを印字装置にかけるんですよ。いまみたいにOSとかメモリなんていう上等なものはないし、プログラムを組むのも配電盤の配線でしなけりゃならなかった。配線は経験と勘がたいせつで、そう簡単には覚えられない。だから「ワイヤリング・スペシャリスト」なんていう言い方もあった。人間がワイヤリングして機械を動かしていたわけだから、
 ――あ、いま読み込みに行ってるな。
 ――もうすぐサマリーが出るぞ。
 とかね。
 何がどうなっているか、計算機がどう動いているかが手に取るように分かった。
 今のコンピュータはブラックボックスで、何がどう動いているか、さっぱり分からない。人は結果を受け取るだけだけれど、当時はまさに計算機を動かしている実感があった。わたしはワイヤリングもやったけれど、全体のシステムを考えたり、仕事量を見て、人員を配置するのが得意だった。
 計算機に出会ったのは1952年だから、昭和27年の春だったかな。わたしは当時、神奈川大学の学生でね、1931年生まれだから21歳、忘れもしない12月5日でした。朝鮮戦争の真っ只中でね、日本を占領していたアメリカ軍が半島に駆り出されて、日本がその補給基地になっていたわけですよ。とにかく戦争ですから、夜中だろうと何だろうと物資を運ばなきゃならない。だから滅茶苦茶に忙しかった。
 わたしがなりたかったのは船乗りか商社マンでした。海外で活躍したかったし、資源が何もない日本を復興させるには、まず貿易からだと考えていたからね。生まれ育ったのが横浜なもんですから、海外との貿易を身近に感じていたんですね。
 ところが現実はというと、まだまだ戦後の復興の最中で、あたりは空襲の焼け跡だらけで、戦災孤児や復員したけれど仕事がない兵隊さんとかが町にあふれていたし、大学を出てもロクな就職先がない時代でした。
 たまたま新聞の求人広告で、川崎にあった在日米軍補給廠―正式な名前は「在地米軍総合補給本廠電子計算部」だったかな―が事務員のアルバイトを募集していたんですよ。
 ――仕事で英語を覚えることができれば、商社マンになったときいいだろう。
 と思いました。たまたま知り合いに米軍の将校がいましてね、その人の紹介で応募したら、面接官が自分とほとんど同い年の若い人で、ちょっと驚きました。それが稲田博さんでした。
 それ以来、仕事上では付かず離れず、個人的にはずーっと家族ぐるみの長い付き合いが続いています。どういうわけかセンター協では同じ時期に2人そろって副会長を務めさせてもらったし、お互いに浜っコだし、自宅が近いこともあって、「イナちゃん」「アンちゃん」なんて呼び合っています。けれど、当時は自分を採用するかどうか決める人だから、そりゃあ緊張しましたよ。
 紹介してくれた米軍の将校がね、
 「計算機は将来、世の中に広く普及する。今のうちに技術を身につけておけば必ず成功する」
 と言って励ましてくれたのを今でも覚えています。


   3

 ――待遇はどうだったのですか?
 給料はよかったですね。大卒の人より三割方多かったんじゃないかな。仕事はね、最初はアルバイトだから、プリンタのカーボンの処理やパンチカードの運搬といった、力仕事と雑用でした。そのうち機械の操作を教えてもらって、いまでいうとキーパンチャ兼オペレータ兼プログラマの仕事をするようになりました。
 通信部隊の物資を補給するために、計算機でデータを処理していたんですね。総員は60人ぐらいで、4チームに分かれて朝6時から午後2時、午後2時から夜10時、夜10時から明け方の6時までという3交代制でね。シフト勤務手当てとか、語学手当てとか、それが本給の3割増しで付く。同い年のサラリーマンの給料が4,500円のとき、7,200百円ももらっていたんだから、いい給料でした。
 ――計算機はどんな場所に設置されていたのですか?
 カマボコ型の兵舎でしたよ。そこに機械が設置されていて、最初はただ地べたに板を敷いていたんじゃなかったかな。そのうちコンクリートの床になった。夏になると猛烈に暑かった。あっちこっちに扇風機を置いて風を送るんだけど、閉め切りですからね。ランニングシャツと短パンで仕事をしました。外も暑いんだけど、それでもマシン室から出ると涼しく感じたもんですよ。
そんなことをやっているうちに、こっちの仕事のほうが面白くなって、結局、大学は卒業せずじまいでした。そういう人はわたしだけじゃなくて、ほかにも大勢いましたよ。だって自分も知らないうちに正職員に採用されていた、なんてことがあったんだもの。
 ――本腰を入れたのはいつごろ?
 24歳になったときでした。給料はいいし、仕事は面白いし、それでいつの間にか大学に行かなくなっちゃって、正規の採用試験を受けて正職員になったんです。当時、在日米軍の計算機部門で日本人が2,000人以上、働いていたんじゃないかな。立川基地の北川宗助さんが日本人のトップで、鉄砲とか弾丸とかの兵器、軍用自動車の部品、被服、食料、薬品、備品などすべてを計算機で管理していた。朝鮮戦争で米軍が使う武器とか、何がどれくらい、どこに必要か、全部分かった。ということは戦局の様子が手に取るように分かっちゃうわけですよ。
 正職員だから、それなりに昇格するわけですよ。補給廠のマネージャーになったとき、職員のストライキが起こってね。職員がストをしても、補給の業務は止められないから、管理職員が計算機の運用をしなけりゃならなくなった。こっちは何から何まで一人でやったことがあるから、徹夜の連続で仕事をこなした。カーボン紙を外すとき、汗でカーボンが体に付いて、真っ黒になったな。
 そのうち朝鮮戦争が休戦に入って在日米軍基地が縮小され、昭和34(1959)年に北川さんも島村浩さんと「日本ビジネス」を作るとか、米軍のPCSの仕事をしていた人たちがどんどん独立していった。わたしは先々のことをあまり考えていなかったし、他の人の就職口を探したりしているうち、結局、最後まで残っちゃった。
 ――独立は?
 1960年にやっと米軍の仕事から抜けて、補給廠で知り合った畑重雄さんという人が作った「第一計算」という会社の仕事をお手伝いをしたのが、この商売に入る最初でした。稲田さんはこのとき、「IBM650」の技術者として、第一計算という会社のセンターを任されていたんじゃないかな。彼は優秀なプログラマーでしたから、第一計算が分裂したとき、計算業務だけじゃなくてソフト開発も受託できる会社を指向したんです。それで作ったのが「第一ソフテック」。わたしはそのときもまだ、自分の将来を決めかねていました。
 手ごたえを感じたのは、日立製作所の家電事業部、今の日立家電の市場調査プロジェクトに参加したときです。計算機なんて誰も知らないものだから、わたしがシステムを設計し、プログラムを作りました。ちょっとカッコいい「プロジェクト・プランナー」という肩書きをもらいました。その経験が、「データのプロセスをコンサルタントする」という社名につながっています。
何を調べたかというと、カラーテレビの将来性でした。昭和30年代、まだ白黒テレビでさえ家庭に普及していなかったのに、日立はもうカラーテレビのことを調査していたんですね。
 「将来、7,200万台の大きな市場になる」
 という結論を計算機がはじき出して、日立は研究開発に自信を得たんです。マーケット・リサーチのはじめでしたね。これがきっかけで、日立の仕事を受託するようになったんです。
 最初はパンチ業務でした。33歳のとき独立して会社を作ったんだけれど、計算機は高嶺の花でした。霞が関のお役所や保険会社に勤めているパンチャーがオフィスから引きあげてくるのを待って、新橋駅あたりで「アルバイト募集」のチラシをまきました。それでパンチャーを集めて、客先にあるマシンを使わせてもらって受託計算の代金をいただいた。
 若かったから、徹夜なんてへっちゃらだし、計算機のことなら任せろ、っていう自信があった。とにかくハングリーで、
 ――どうしたら儲かるか。
 ――次はどんな仕事をやってやろうか。
 ということばかり考えていましたね。
 米軍でがむしゃらに働いた経験があったのと、最初の仕事がプランナーだったので、ただのパンチ会社では終らないぞ、会社を作ったからには儲けてやる、という気持ちだけはありました。

PR

Comment

お名前
タイトル
E-MAIL
URL
コメント
パスワード

Trackback

この記事にトラックバックする:

Copyright © IT人物列伝 : All rights reserved

「IT人物列伝」に掲載されている文章・画像・その他すべての無断転載・無断掲載を禁止します。

TemplateDesign by KARMA7
忍者ブログ [PR]