[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
――情報産業にかかわる1950年代のことを知りませんか。
という筆者の問いかけに、
「ヒントを教えてあげましょう」
と言ってくれた人もいた。
石田浩氏もそうした人の1人である。
同氏には社団法人情報サービス産業協会の国際部長として、しばしば取材させてもらった。協会事務局を退いた現在は、埼玉県で暮らしながら、ソフト関連企業の顧問を務めている。
「まず、戦前にあった日本ワットソンという会社を調べるといい。そこに水品さんとか、島村さんとかがいて、そういう人たちが戦後、企業経営手法を啓蒙し、コンピューターの利用を広げたんですよ」
と同氏は言った。
「水品さん」は日本IBMの第2代社長、「島村さん」は日本ビジネスの創業者――という程度の予備知識はあった。
「戦後、GHQが日本人の経営者や管理者を養成したとき、島村さんたちが講師をやったんです」
そのことは知らなかった。
「パンチカード・システムのことは知ってるよね」
――言葉だけは。
「ま、いいや。戦後間もないころ、PCSを使うということは、経営の近代化、民主化を意味していてね。つまり会計や在庫、原価を計数的に管理しようということだった」
そういう考え方は戦前はなかった。
「算盤と帳簿だもの。統計を作って経営を分析するなんていう発想は戦後ですよ。そのために会計処理の方法とか、経営や組織の運営、業務改善の手法を、占領軍は日本人を使って日本の企業に教えたんですよ」
なぜ、そういうことを知っているのかと尋ねると、
「だって、わたしはその授業を受けた1人だもの」
という答えが返ってきた。石田氏当人が、歴史の証言者だったのである。
改めて連絡を取ると、石田氏は
「わたしなんか、インタビューしてもつまらないよ」
と謙遜して言った。
「そこを何とか」
と強引に面談の時間を取ってもらった。
「どういういきさつで占領軍と付き合うようになったんですか」
と尋ねるると、
「カイザー田中という人を知っているかね?」
と石田氏は言った。
以下は、石田氏の談話をもとに、筆者の調査を加えたものだが――。
――1948年からGHQは、日本企業の経営の近代化・民主化を推進したんですよ。横浜市に設置したMTP、つまり「マネジメント・トレーニング・プログラム」、それとTWI、こっちは「トレーニング・ウィズイン・インダストリー・フォー・スーパーバイザー」がそれでね、現在も講座が開かれているはずですよ。
調べると、あった。
社団法人日本産業訓練協会(JITA)が、東京・渋谷で現在もMTPとTWIの講座を開いていた。同協会の資料によると、「MTPは1945年、日本に初めて紹介された管理者教育の原点と言われる研修プログラム。日本の企業風土と産業の発展、経済環境の変化などにあわせて、繰り返し改定が行われ、現在でも、産業界・官公庁を問わず、管理者教育の要として幅広く活用されている。昭和20年代後半には、国内の大企業を中心に普及していく。昭和28年度には大企業の半数がTWIに人材を送り込んでいた」とある。ちなみに同協会がMTP、TWIのライセンスを得たのは1955年で、協会は通産省と労働省および、経団連の共同で設立されている。現在のMTP、TWIは、それぞれ一単元が10時間で構成され、1クラス10人程度による会議形式の実習となっている。いまだに受講者は多いらしい。
さらに調べると、MTPというのはそもそもアメリカ空軍が監督者を訓練するために策定した標準教育課程をもとに、経営管理者向けにアレンジしたものだった。
石田氏の回想を続ける。
――GHQの資料をもとに、カリキュラムや手引書の日本語化が始まったのは1950年でした。わたしはその第1期生みたいなもので、教科書も教材も英語、授業も英語だったので、それは苦労しました。GHQはアメリカ流の計数的指標、それに基づく合理的な経営の手法を経営者に教え、戦前の財閥のような同族経営の弊害を除去しようと考えたのでしょう。このため、実務担当者や経営幹部となるべき有望な青年を対象に設けられたのがMTPとTWIだったというわけです。
現在で言えば、CIO(チーフ・インフォメーション・オフィサー)とインフォメーション・アドバイザーを養成しようとしたのである。
2
では石田氏はどのようないきさつで占領軍の経営学講座を受講することになったのだろうか。石田氏の回想によると、当時の状況は次のようだった。
――社会に出たのは昭和24(1949)年でした。軍事訓練を受けているうち、終戦になってね。大学に入り直したものの、東京はポツンポツンと焼け残ったビルがある程度で、街には復員兵や戦争孤児があふれていました。それこそ「大学は出たけれど」でね。食べていくのがやっと、という状態で、いまのように企業が新卒採用をやっていたわけじゃありませんでした。就職先は自分で探した時代でした。そうこうするうち、知り合いの紹介で、やっとの思いで札幌のホテルに職を見つけることができたんです。
就職したホテルというのは、札幌グランドホテルだった。札幌グランドホテルは現在も、三井観光開発の所有で、札幌市北一条にある。
ここで石田氏は意外な人物と出会うことになった。それは田中義雄という人物だった。
この名前を聞いてすぐ分かる人は、よほどの野球通であり、かつ、よほどの〔トラキチ〕といわなければならない。
1909年7月、ハワイに生まれた。戦前、昭和12(1937)年から1944年まで、阪神タイガースで正捕手を務めた。身長176センチ、右打ち右投げ、背番号〔12〕。ドイツ帝国皇帝カイゼルにあこがれ「カイザー田中」と名乗った。「阪神の司令塔」とも呼ばれ、1940年にはベストナインに選ばれている。彼の活躍がなければ、戦前における若林忠志、亀田忠(イーグルス)、上田藤夫、山田伝(阪急)、戦後の与那嶺要(巨人)など、30人を超えるハワイ日系2世が日本のプロ野球史に名を連ねることはなかったであろう。
日米開戦を前に彼らの多くはハワイに戻ったが、カイザー田中は日本に残っていた。日本国籍を取得し、〔日本人〕になっていたのである。プロ野球の人気選手ではあったが、アメリカ生まれということでやや白眼視され、退団後、ひっそりと札幌で暮らしていた。
日本語と英語が達者なことから1945年8月にGHQ所属の通訳となり、北海道庁や札幌市役所、地元企業などに対するGHQの窓口となっていた。
各地の主要なホテルは駐留軍の指令本部兼将校の宿泊施設として接収されていた。札幌グランドホテルも例外ではなかった。特にアメリカ軍はソ連軍への警戒から北海道を最も重視していて、千歳基地と札幌市に軍司令部を置いていた。司令官と直接話ができるカイザー田中のウエイトは大きかった。
ここに石田氏が採用されたのは、「少しは英語が理解できる」という理由からだった。
結果として石田氏は、当時の極東アメリカ軍にとって最もウエイトが高かった軍司令部で、最も頼りになる上司の下で働くことになったのである。これが石田氏の人生を決定する。
この若い日本人の人柄や勤務状況、英語の理解力を見ていたカイザー田中は、しばらくして、
「横浜に行って、勉強してくるといい」
と石田氏に告げた。
「何を勉強するのでしょうか」
と尋ねると、
「行けば分かる」
というような返事しか返ってこなかった。
「命令みたいなものでしたね」
と石田氏はいう。カイザー田中が司令官を説得したのであろう。
3
――MTPコースは、英語ができて将来有望な若手を20人ほど全国から選抜して、経営管理手法を教えていたんです。手引書やカリキュラムが日本語化される前のことで、現在のように〔1単元10時間〕〔1クラス10人〕というような体系もなく、手探りの授業が続けられていました。
そこで民主的な経営とはどうあるべきか、業務の改善はどうすれば実現するかとか、人事管理などを勉強しました。英語では苦労しましたよ。
というのは、教科書と呼べるようなものはなかったんです。カリキュラムもいまのように体系化されていませんでね。アメリカ流のカリキュラムをそのまま持ってきても日本の事情に合わないわけです。それで、講師と生徒が一緒になって辞書を調べながら、英語の手引書を翻訳し、それを日本流にアレンジしていきました。
このとき日本人の講師だったのが、日本ビジネスの島村浩さんでした。
日本ワットソン統計会計機で北川宗助と机を並べた島村浩は、米第88軍のMRUが縮小されたのち、このMTPの講師として配属されていた。神戸商業大学での講座や第8軍でインストラクタを務めたことが評価されたのだった。
MTPでアメリカ流の経営管理手法を学んだ石田が札幌に戻ったとき、それは1952年のことだったが、カイザー田中はアメリカ国籍に復してハワイに戻っていた。そのため、空席となっていた札幌グランドホテルのマネージャーに抜擢された。
マネージャーの仕事をこなす傍ら、市の商工会や学校などに招かれて、アメリカ流経営学について講義することもあった。その話を聞いた地元企業から、機械化や事務の合理化などの相談が持ち込まれることも少なくなかった。
札幌市に本社を置いていたフルヤ製菓に招かれ、組織改善や事務の機械化を推進した。
「わたしはPCSを使いこなす技術はなかったけれども、計数的な指標に基づく経営の手法や人事管理、組織のあり方など、MTPでの研修はたいへんに役に立ちました」
なかでも業務の標準化や事務手続きの簡素化は、経営の効率アップに役立った。ドロップやキャラメルなどは単価が安いため、大量に販売しなければ利益が出ない。在庫と販売の管理を確実に行うとともに、物流を整備しなければならない。つまり商品をコード化し、生産から物流、販売にいたるまでの同一のコードで管理することになる。
PCSによる機械化が計画された。
「機械化の推進では、島村さん、藤本さんの縁で日本ビジネスに指導してもらいました。業務分析とかワークフローとか、毎晩徹夜の連続みたいなものでしたが、地方の中小製菓会社に過ぎなかったフルヤ製菓が、一躍、全国に市場を広げることができたのは、この成果だったと思います」
ここに登場する「藤本さん」は、のちにドイツのソフトウェアAG社と提携して汎用機用データベース管理システム(DBMS)「ADABAS」を販売した藤本和郎である。以後、石田はフルヤ製菓のCIOとして活躍し、1982年に藤本和郎がソフトウェア産業振興協会会長になるのに伴い、藤本の招きで同協会事務局長となった。戦後の復興期、同じ釜の飯を食った人と人のつながりの強さは、現今の比ではない。
≪ 大久保茂氏 | | HOME | | 安藤多喜夫氏 アイエックス・ナレッジ(データ・プロセスコンサルタント)創業者 ≫ |